yamachanのメモ

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ハイエクの知的エリート主義について

 ハイエクを読んでいく中で、やはり伝記のようなものを読みたいと思い、ラニー・エーベンシュタイン『フリードリヒ・ハイエク』を読んでいる。以下、ハイエクの知的エリート主義についての記述をメモ。

 『通貨国家主義と国際的安定性』の中で、ハイエクは純粋に理念的に構築された世界観を披露している。

 

 理論仮説がすぐに影響を及ぼすということは少ないかもしれない。だが、金融政策は議論の対象ではないという今日主流の見解を形作る上で、理論仮説は多大な影響力を発揮してきた。……

 このような学究的議論こそが長期的には世論を形成し、それが後の政策を決めていくことになる、私は固く信じている。……

 安定的な国際制度の基盤を構築するためにはまず、理念の分野でやっておくべきことが多くある。……

 長い目で見れば、人間社会の出来事は知力に導かれていると私は確信している。そう信じるからこそ、このような抽象的な考察が重要だと思うのだ。たとえ、そんな考察が直近の実現可能性については何の役にも立たないとしてもだ。

 

 彼は、徹底して知的エリート主義者だった。彼のような人間が生みだした考えが最終的には世論や社会の出来事を導いていくとはっきりと述べている。この点から言うと、彼は道徳主義者だ。誰よりも熱心に献身的に、公共善を追求したのだ。彼の初期の専門的な経済学研究が、実証分析として、また規範的理論として有効だったかについては議論の余地があるかもしれない。しかし、彼の研究活動を貫く、公共善の追及については疑う余地はない。そして、彼の徹底した知的エリート主義についても忘れてはならない。(120-1)

 シュンペーターのエリート主義と似ているようでどこか違う気がするので、また確認しよう。

フリードリヒ・ハイエク

フリードリヒ・ハイエク

 

 

ケルゼン「現代民主制論批判」(『ハンス・ケルゼン著作集Ⅰ』所収)

 ケルゼンによるハイエク批判のメモ。

徹底的に分権的で、殺人と近親相姦の禁止のような最低限の規制のみをもつ原始的な社会秩序とて、集権化のある段階である。それに比べれば、近代国家はかなりの範囲の規制対象をもち、はるかに集権度が高いが、全体主義とはいえない。確かに社会主義は、経済生活の集権化であるから、団体主義ではあるが、経済の集団化が人間生活全体の集団化を必然的にもたらすものかどうかがまさしく問題である。「経済生活の集権化は必然的に人間生活全体の集権化もたらす」と考える人々は、次のように説く、「経済生活と他の人間生活とを分離することはできない。なぜなら、経済以外の目的を実現するためにも、経済的手段が不可欠だからである。経済はあくまで目的のための手段であって、究極目的は経済的なものではない。例えば宗教的信仰を共有する人々が、その信仰箇条の求める共同の礼拝を行おうとすれば、その場としての建物が必要となる。即ち精神的必要を実現するための経済的手段が必要となる。そこで経済的手段が中央権力の統制下に置かれている社会主義社会においては、目的の実現はこの権力の決断に依存する。即ち権力は非経済的目的をも統制することになるのである。従って国民はこの目的実現を自由に実現する訳にいかなくなる」、と。それはその通りであるが、資本主義社会において、状況がこれと異なっているであろうか?計画経済でなければ、非経済的必要の実現は自由に探求され得るものであろうか?先の例でいえば、信者たちに礼拝のための建物を買う金がなければ、銀行の融資を求めるかも知れないが、銀行の方でもっと確実で有利な投資先があれば、融資を断るであろう。もちろん資本主義社会では銀行間に競争があり、彼らは別の銀行に融資を求めることもできる。しかしこれとてうまくいくとは限らない。融資してくれる銀行が見つからなければ、資本主義社会においても、宗教的欲求を経済的手段を用いて実現することは、社会主義社会の場合と同様に、自由ではないこととなる。仮に憲法が信教の自由を保障していてもである。ハイエクは、資本主義社会においては、「困難は、誰かが我々の目的に反対するからではなく、誰かが同一の手段を需要するから生ずる」のだと言う。しかし非経済的目的のための経済的手段を「誰かが需要すれば」、自由ではないではないか。礼拝のために建物を必要とする者の立場から見て、その必要な経済的手段を与えることを拒否する者が銀行であろうと、国家であろうと違いはない。また「社会主義経済体制においては、仕事を選ぶ自由がなくなる」という主張もある。それはその通りだが、資本主義経済体制においても、その自由を享受するのは特権的な少数者である。職業選択の自由を立法的・行政的・司法的に制約することは禁止されているにも拘わらず。(291-2)

ハイエクは資本主義者社会を擁護して次のように言う。曰く「貨幣は人間が発明したものの中で最も偉大な自由の道具である。現在の社会において、貨幣こそが、貧しき者に驚くべき選択の範囲を開いた。現在貧者が有している選択範囲は、数世代前に富者に開かれていた範囲より大きい」と。しかしそれは貧民が貨幣を有していればの話である。しかし「カネ持ちの貧民」とは形容矛盾ではないか。(312)

 「現代民主制論批判」のハイエク批判の箇所では、立法(法創造)、行政・司法(法適用)における民主化の問題も議論されており、大変勉強になる。

ハンス・ケルゼン著作集 1 民主主義論

ハンス・ケルゼン著作集 1 民主主義論

 

 

 

ミシェル・フーコー『生政治の誕生』

 フーコーは『生政治の誕生』の中で、ハイエクのことを「現代の自由主義の定義づけにとって非常に大きな重要性を持っていました」(129)と取り上げ、ハイエクについて何度か言及している。気になったところをメモ。

経済は一つのゲームであり、経済に枠組を与える法制度はゲームの規則として考えなければならないということ。法の支配と法治国家によって、統治の行動が、経済ゲームに規則を与えるものとして形式化されるということです。その経済ゲームを行う者、つまり現実の経済主体は、個々人のみ、あるいは、こう言ってよければ、企業のみです。国家によって保証された法的かつ制度的枠組みの内部において規則づけられた企業間のゲーム。これこそ、刷新された資本主義における制度的枠組みとなるべきものの一般的形式です。経済ゲームの規則であり、意図的な経済的かつ社会的管理ではないということ。経済における法治国家ないし経済における法の支配のこのような定義こそ、ハイエクが、非常に明快であると私には思われる一節のなかで特徴づけているものです。彼は計画について次のように語ります。まさしく法治国家ないし法の支配と対立するものとして、「計画は、一つの明確な目的に到達するために社会の資源が意識的に導かれなければならないということを示す。法の支配は、逆に、その内部において個々人が自らの個人的計画に従って自らの活動に身を委ねるような、最も合理的な枠組をつくろうとするものである。」あるいはまた、ポランニーは、『自由の論理』のなかで次のように書いています。「法システムの主要な機能、それは、経済的生の自然発生的秩序を統治することである。法律のシステムは、生産と分配の競争メカニズムが従う諸規則を発達させ、強化しなければならない。」したがって、ゲームの規則としての法律システムがあり、次いで、自然発生的な経済プロセスを通じてある種の具体的秩序を表明するようなゲームがあるということです。(213-4)

数年前に、彼(ハイエク)は次のように語りました。我々が必要とするもの、それは、生ける思考としての自由主義である。自由主義は、ユートピアを作り上げる作業を社会主義者たちにずっと任せてきた。そしてこのユートピア的あるいはユートピア化する活動によって、社会主義はその力強さとその歴史的ダイナミズムを得たのだった。そこで、自由主義にもやはりユートピアが必要である。我々の役目は、自由主義を統治の技術的代案として提示することよりもむしろ、自由主義ユートピアをつくること、自由主義の様態にもとづいて思考することなのだ、と。思考、分析、想像力の一般的スタイルとしての自由主義。(269)

 

『ハイエク、ハイエクを語る』読書メモ

 『ハイエクハイエクを語る』の中で、ハイエクシュンペーターの理論とハイエク自身の理論との関係について語っている箇所が興味深いのでメモ。

 予言の性格がどこか似ています。しかしシュンペーターはパラドクスを心から楽しんでいるのです。彼は、資本主義は明らかにずっとよいものだが存続を許されず、社会主義は悪いものだが不可避的にやってくる、といって人々にショックを与えたかったのです。あれは、彼がまさに好んだ種類のパラドクスです。

 その背後には、一定の意見の流れーそれにたいする彼の観察は正しいのですがーが元に戻せないものなのだ、という発想があります。彼は逆のことを主張してはいますが、最後のところで彼は、[流れを変える]議論の力を本当はまったく信じていなかったのです。事態のあり方が人々に特定の考え方を強制することを、彼は当然の前提にしていました。

 これは基本的なところで誤っています。一定の条件下にある人々が一定のものを信じることを必然にするものは何か、を簡単に理解することなどできません。思想の進化は、それ自体の法則をもち、われわれが予測できない様々な発展に大きく依存します。私が言いたいのは、私は人々の意見を一定の方向に動かそうと試みていますが、それが実際にどの方向に動くかを予測するだけの勇気はもちません。自分がそれを少し変えることができれば、と考えているだけです。しかしシュンペーターの態度は、理性の働きに対する完全な絶望と幻滅でした。(205)

 ハイエクシュンペーターとの共通点と差異について、今後整理していきたい。

ハイエク、ハイエクを語る

ハイエク、ハイエクを語る

 

 

今井照『地方自治講義』

 地方自治の基礎概念や歴史・現状について、本書ほどわかりやすく、丁寧に論じた新書はめったにないだろう。本書を読むことで、地域社会や自治体を考える基本的枠組みを獲得することができる。

 「自治体を私たちが使えるものにしたい」(278)ー帯にも書いているように、これが本書の主張だ。

 市町村合併の歴史(第2講)、地方財政の仕組み(第3講)、日本国憲法の条文(第5講)、地方創生の現状(第6講)の記述から伝わってくるのは、「現在の自治体はすでに歴史に翻弄されて自治体本来の意義を見失いかねている」ことへの危惧と、「「分権」の名のもとに自治体統制を強めることで私たちを自治体から切り離そうと努めてきた」為政者に対する批判的な姿勢である(278)。詳しくは本書を手にして、まずは一読してほしい。ここでは、現場の立場の人間として感じたことをメモしておく。

 まず、「市民」と「市民参加」に対する著者の思いと私の思いとの違いである。著者は市民について次のように説明する。

今の私たちの生活は政策・制度のネットワークの中にあり、私たちは日常的に政策・制度に直面するので政策・制度の当事者になっている。身の回りが選択肢だらけになっている。(42)

課題がもう一つ増えるごとに政策・制度の組み合わせは無数に増えていく。こうなると自分の選択肢と完全に合致する政党などは存在しない。だから自分が当事者になって、我が身に降りかかる政策課題を考えなくてはならなくなる。これが市民という存在が誕生する背景です。(43)

考え方も感じ方も、あるいは置かれた環境や年齢、性別、職業も異なる人たちの間で意見を調整しなければならない。…市民になるということはこのように政策・制度をめぐる意見調整に参加せざるを得なくなることです。だから公的な存在になる。(43)

確かに、日常の生活で実感することはないかもしれないが、私たちは生きているだけで政策・制度のネットワークの中に投げ込まれており、その意味では「当事者」かもしれない。しかし、選択肢が増加したり、制度が複雑になったりすることで、「思考する」「意見を調整する」存在ではなく、「思考や意見調整を放棄する」存在になる可能性が高いのではないか。そして、これから地方自治について考える上で重要なことは、後者のような存在を前提とした地域社会の在り方を考えていくことだと思う。

 次に、平成の大合併は、自治体側にも国の側にも必要性や必然性がないものとして批判的な側面ばかりが取り上げられているが、市町村への事務権限の移譲を進めるという目的が背景にあり、この政治過程も描くべきである*1。例えば、西尾勝は次のように語っている。

第一次勧告を出す直前にを与党第一党である自民党行政改革本部に、委員長以下で「第一次勧告ではこういう内容を予定しています」ということを説明に行ったところ、参加された議員から異口同音に次のような意見を言われたわけです。…「市町村の権能を強化しようとしても、小規模町村では限界がある。全ての市町村に事務権限を移譲するという観点から、市町村合併を強力に推進すべきである」「委員会は、受け皿論を棚上げする方針のようだが、市町村合併の問題は分権改革と同時並行して進めるべきだ。…」とおっしゃいました。…その後、諸井委員長は自民党以外の連立与党や野党にも訪問され、議員の意見を伺ってこられました。諸井委員長は「与野党を超えて合併推進論が国会議員の多数だと認めざるを得ない。市町村合併を検討しなければ、以後の地方分権推進委員会の勧告その他に協力してもらえないかもしれない」と我々におっしゃいまして、いったんは受け皿論は棚上げするという了解で進めてきたものの、やはり市町村合併をやらざるを得ないということになりました。(地方自治制度研究会編集『地方分権 20年のあゆみ』166-7)

地制調で合併の問題を改めて検討することになったときに私が感じたことは、どうも全国の動きが財政の効率化とか、財政コストの削減とかが第一の目的になっているのはないかということでした。本来は、基礎自治体である市町村への事務権限の移譲を進める、そのための受け皿になるような市町村になれということが目標に掲げられていたはずなのに、その関係のことは全く議論が出ていない。(189) 

  ここで、私が西尾勝の議論を取り上げたのは、事務権限の移譲そのものは理念としては間違っておらず、その受け皿のための市町村合併なら同意しうるからである。なぜなら、自治体を私たちが使えるものにするためにも、西尾勝の用語を借りれば(『自治・分権再考』68)、「自由度拡充路線」だけではなく、「所掌事務拡張路線」も進めていき、自治体を強化していく必要があるからである*2

 ここでは著者との見解が異なる点を述べたが、公証事務を例とした「理屈と現実との乖離」に対する批判や、「「計画のインフレ」状態」に対する批判等、賛同できる箇所も多い。また、「市民」や「市民参加」についても、著者の理念に魅力を感じるところもある。

 まずは本書を読み、「地方自治」に少しでも関心を持ち、「自治体を使いこなす」という気持ちを持つ人が増えてほしい。それによって、自治体や地域社会は良い方向へ少しずつ変化していくかもしれない。

地方自治講義 (ちくま新書 1238)

地方自治講義 (ちくま新書 1238)

 

 

*1:地方自治制度研究会編集『地方分権 20年のあゆみ』第2部を参照。

*2:西尾勝も指摘しているように、「自治体にこれまで以上に多くの事務事業の執行権限を移譲することによって自治体の仕事の範囲を広げその仕事量を増やすことは、地方分権の推進ではあっても、地方自治の拡充になるとはかぎらない」(西尾勝地方分権改革』247)ことには注意しておく必要がある。