yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

富永京子『みんなの「わがまま」入門』

 本書を中学生や高校生の時に読んでいたら…富永京子『みんなの「わがまま」入門』を読むと、そのようなことを考えてしまう。その理由は、著者の社会に対するアプローチと、僕が学生時代に勉強してきた社会に対するアプローチが異なるからだと思う。
 著者のアプローチは、「みなさんの足元」「恋人との間」「学校のなか」(11)といった身近なものから「政治」や「社会」を考えようとするものだ。そして、身近なことからできる実践的なエクササイズを通じて、学問の技法の入り口へと導くような構成になっている。一方、高校2年生の時に、僕はあることをきっかけに「社会の仕組みや人間の思考・行動原理ついて学びたい」という思いを抱き、そこから橋爪大三郎社会学に出会い、理論社会学に関心を持った。身近なものではなく、そもそも「政治」や「社会」とは何か、どのように成り立っているのか、という抽象的な話から学問に興味を持ち、そのため身近なものから遠く離れて行き、そういう自分に対してモヤモヤ・イライラして、「身近なものから見つめ直そう」という思いを抱き、今の生活に至っている。つまり、ひどい遠回りをして、身近なものから考えるという、本書のスタート地点に漸く立つことができている。だから、中学生や高校生の時に本書を読んでいたら…ということを考えてしまうのだろう。もしも高校生もしくは大学入学時の自分に出会うことができるなら、「とりあえずこの本を読んでみたら」とオススメできる、そんな一冊である。
 さて、以上のような個人的なことはさておき、本書の内容で注目すべきところは、人々が抱いている幻想を解体した上で、現実から出発して新たなフィクションを構築しようとする点である。著者は具体的な数値を提示することで「ふつう幻想」(26)を解除した上で、「共通する「根っこ」」(45)、「共感のつながり」(47)を探していく、これを社会運動の特徴としており、政治的な立場の一つとして興味深く、賛同できる。また、イベント等を通じて多様な人と接することで、「自分とは異なる人の存在」と「親とは異なる人の考え方」を学んでほしい(152)という著者の意見もその通りだと思う。さらに、「どの具体例をあげても、どの表現を選んでも、すべてにおいて公正などというものはなく、だれかを傷つけ可能性がある」(270)という指摘も重要である。総じて、本書の議論展開や言葉の選び方が著者の政治的立場を示しており、同意するところが多い。
 ところで、本書を読んで思い浮かべた本がある。それは、國分功一郎『民主主義を直感する』である。もちろん、デモに対する考え方がそうであるように、富永さんと國分さんとでは、立場が異なるところもある。しかし、國分さんの「たとえ事情に通じていなくても、「これは何かおかしい」という感覚が得られたならば、それだけで貴重である」*1という指摘は、富永さんの「わがまま」に通ずるものがある。また、「身近なところと遠いところ、少し難しく言えば、コンサマトリーな親密圏と問題が起きている公共圏とを繋ぐ何かが必要である」*2という問題意識を、『みんなの「わがまま」入門』は引き受けているようにも思える。そして、國分さんは「ハンナ・アレントは『人間の条件』という本の中で、話せること、言葉を使えることこそが、人間が政治を行う上での不可欠の条件であると言いました。まず気になることがあったら誰かと話をしてみてください」*3と提案している。この「誰かと話をする」という観点から言うと、富永さんが提示しているエクササイズは、國分さんの提案する政治の実践の一つとも言える。
 このように、大変興味深い本書であるが、僕にとって見えてこなかったのは、富永さんにとっての「政治」や「政治的なもの」とは何か、という点である。「不満やモヤモヤに社会や政治が埋もれている」(11)なら、「政治的な主張」(80)とそうでない主張の違いは何か、政治的な「わがまま」(82)とそうでないわがままの違いとは何か、「政治的なもの」(100)とそうでないものの違いは何か、「政治」は近いものなのか遠いものなのか…等々の疑問が残る。今後、富永さんの考えをお聞きしたい。
 最後に、あるインタビューで宮台真司氏が吉本隆明について語った内容を紹介する。

私が吉本から受け取ったのは、こんな課題です。「大衆の自然な生活感覚からできる限り遠い場所で原理的に考察しながら、しかし、そのことで大衆から遊離するのではなく、むしろ深く内在しうるような方向性が模索されなければならない」。私の感じ方では、それだけが「社会にノレない」人間が社会に内在しうる唯一の経路だと感じられたわけです。(宮台真司「思想家としての倫理」『interviews』198)

 富永さんの社会運動に対する姿勢に同じような匂いを感じるのは僕だけだろうか。

みんなの「わがまま」入門

みんなの「わがまま」入門

  • 作者:富永京子
  • 発売日: 2019/04/30
  • メディア: 単行本
 
民主主義を直感するために (犀の教室)

民主主義を直感するために (犀の教室)

  • 作者:國分功一郎
  • 発売日: 2016/04/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

*1:『民主主義を直感する』232

*2:『民主主義を直感する』24

*3:『民主主義を直感する』54

山本圭『アンタゴニズムスーポピュリズム<以後>の民主主義』

 2014年に、エルネスト・ラクラウ『現代革命の新たな考察』の翻訳書を出版して以降、毎年のように著書・訳書を出版してきた著者が、各媒体で執筆してきたものを加筆・修正してまとめられたものが本書である。それぞれ異なる媒体で執筆されたものであるにもかかわらず、各論考を関連付けるような構成になっており、一冊の本としてまとまりがある内容になっている。
 著者は本書のテーマとして、「敵対性(アンタゴニズム)」(12)と「<公的でないもの>の政治学」(19)を挙げている。私が触れてきた政治学では、「敵対性」ではなく「我々(=同質性)」、「公的でないもの」ではなく「公共性」について語られることが多かったため、これらのテーマについて議論が展開されている本書は大変興味深いものであった。
 さらに、本書に通底しているのは、『アンタゴニズムス』というタイトルからも分かるように「複数化」の問題、そして「両義性」という問題である。例えば、「私たちが目撃しているのは、むしろ複数の敵対性、すなわち社会のいたるところで、いたるところから、これまで自明視されていた基礎付けに異議を申し立てる「アンタゴニズムス」にほかならない」(16)、「公的領域における複数性のみならず、公的領域そのものの複数化が重要になるということなのである」(150)、「バトラーの思想にはひとつではない、複数の民主主義へのチャンネルが存在する」(182)といったように、著者は「複数」に着目している。「両義性」という観点では、「二つの享楽を、つまり人民とマルチチュードを往還するような両義的な戦略にこそ、ラディカル・デモクラシーの未来は賭けられているのだろう」(91)、「不和と不快感を抱えつつも、それでもまずは一緒にいようとする、こうした付かず離れずの距離感が、バトラーのデモクラシー的連帯への展望を支えている」(182)、「中途半端さこそ、アゴニズムをすぐれてポスト基礎付け主義的な理論にしている」(250)、「ハンナ・アレントは、政治的な領域においては、真理よりも意見が決定的であると述べたが、ここで「真実らしさ」とはむしろ、真理と意見のいずれでもない、いわば中間物であり、真理の外観はすぐれてヘゲモニーの産物である」(261)といったように、「両義性」という言葉を使わずとも、「付かず離れずの距離感」「中途半端さ」「中間物」等、「両義性」を意味する語句が本書のいたるところに見受けられる。また、著者自身も「政治学現代思想のあいだで仕事をしてきた者」(277)であり、本書自体が「境界でこだまする不審なメッセージ」(9)にもなっている。
 本書を2020年の4月に読んで思い浮かべることは、やはりコロナ下の社会といかに向き合うことができるのか、という問いである。今我々は「感染している/感染していない」「感染する/感染しない」ではなく、「感染しているかもしれない」「感染するかもしれない」という宙吊り、半端さの状態を生きているとも言えるのであり、そのような状況において必要なのは緊急事態宣言でも楽観的無策でも諦観でもなく、「意志のオプティミズム」(60-1)ではないか、そのようにも思えてくる。そこには完全な、そして最終的な解決は無いかもしれないが、「むしろその不在こそ…政治的作為のための空間を開いていると考え」*1、国家や社会に対する批判を途絶えさせてはいけない、このようなことに気づかせてくれる「力」を本書は持っている。
 なお、先に引用した「意志のオプティミズム」に限らず、「節合」「等価性の連鎖」「戦略」といった概念が本書には出てくるが、これらの概念を理解する上でも、同著者の『不審者のデモクラシー』を読むことをオススメする。『不審者のデモクラシー』と『アンタゴニズムス』は、現代社会そして未来社会について考える際の導きの糸となるであろう。

アンタゴニズムス: ポピュリズム〈以後〉の民主主義

アンタゴニズムス: ポピュリズム〈以後〉の民主主義

  • 作者:圭, 山本
  • 発売日: 2020/02/25
  • メディア: 単行本
不審者のデモクラシー――ラクラウの政治思想

不審者のデモクラシー――ラクラウの政治思想

  • 作者:山本 圭
  • 発売日: 2016/05/19
  • メディア: 単行本

 

*1:山本圭『不審者のデモクラシー』159

森政稔『戦後「社会科学」の思想ー丸山眞男から新保守主義まで』

 「若い学生たち歴史的な感覚を持ってもらいたい」(6)という思いから書かれた本書は、戦後の政治学を中心とした社会科学の歴史が描かれており、学生に限らず、「現代」社会を生きる我々にとっても参考になる力作である。また、本書はこの「現代」という言葉の意味を問うことから始まっており、我々がどのような時代を生きているのかということについての思考を促すものとなっている。
 著者のねらいは、「社会の変化と社会科学の主題の転換、そして社会科学の背景にある思想を関係づけること」(8)であり、①「戦後」からの出発、②大衆社会の到来、③ニューレフトの時代、④新自由主義的・新保守主義的転回、という四つの時代を設定して、議論を展開していく。①「戦後」からの出発では、丸山眞男をはじめ、マルクス主義市民社会論が論じられ、それを受けて②大衆社会の到来が語られる。そして、著者が「<政治的なもの>をめぐる議論において、一九六〇-七〇年代は特別に重要な時期であった」*1と指摘する③ニューレフトの時代においては、真木悠介見田宗介)や廣松渉の思想、社会科学の諸領域における理論的刷新についても言及があり、この時代の思想の多様性も学ぶことができる。④新自由主義的・新保守主義的転回では、保守化や統治性の問題、新しい市民社会論と1980年代以降の日本の社会変化等が論じられている。

 以上のような広いテーマをこのボリュームで扱う以上、議論が大股なものになるのはやむをえない。また、1980年代の日本に関する記述は社会の変化に関する記述が多く、この時代の日本における保守思想とポストモダン思想との関係が見えてこないのが残念なところではある。それでも本書は、著者のねらいを十分に達しているだろう。関心を持ったテーマについては、参考文献を頼りに読者が自ら学んでいけばよい。
 アンドリュー・E・バーシェイによると、「現代世界は社会学的知識の対象であるだけでなく、その産物となっている」*2。社会科学をこのように捉えるなら、著者の「社会の変化と社会科学の主題の転換、そして社会科学の背景にある思想を関係づける」というスタンスこそ、まさに社会科学の正統な営みであり、そのような意味で本書は社会科学の教科書としても最適な一冊である。

 

 

 

*1:森政稔『<政治的なもの>の遍歴と帰結』41

*2:アンドリュー・E・バーシェイ『近代日本の社会科学』7

横田祐美子『脱ぎ去りの思考ーバタイユにおける思考のエロティシズム』

 『脱ぎ去りの思考-バタイユにおける思考のエロティシズム』というタイトルの「脱ぎ去り」「エロティシズム」という言葉からは、僕たちがよく知る「エロティシズム」のバタイユ像を想像するが、本書の主題は冒頭で語られているように、「彼(バタイユ)の思想を古代ギリシャから連綿とつづく哲学の営みのうちに位置づけようとする」ものである(9)。
 本書はその試みをわかりやすく論証していく。そのわかりやすさは、まずは論証スタイルに由来する。章の冒頭で前章までの議論とのつながりを説明した上で、その章で明らかにするものを明示し、章の結論箇所では前章までの議論を踏まえ、その章で検討した内容をまとめた上で、次章で取り組むべき課題を明示している。繰り返しになることを厭わずにこのようなスタイルを貫くことで、哲学を専門としない僕のような読者でも難なく読み進めることができるような構成になっている。
 また、重要な概念について、日本語とフランス語を併記し、語源や原義、翻訳の問題について丁寧に説明していることも、本書をわかりやすいものとする要因の一つである。もちろん、原義や翻訳の問題を問うことがバタイユの思想を哲学の営みに位置づけるために欠かせないことではあるが、フランス語を学んだことが無い人にとっても論証を追うことができるよう、従来の研究書では省略されるような説明が付されており、本書は読みやすいものとなっている。
 本書で描かれたバタイユの思想は、横田さんが試みたように、「古代ギリシャから連綿とつづく哲学の営みのうちに位置づけ」られ、「力動的な哲学的思考の流れのなかに位置づけ」(258)られる。そして、バタイユをそのように位置づけるなかで出てくる、プラトンアリストテレス、カント、ヘーゲルニーチェハイデガーアドルノデリダ、ナンシー、ガブリエルといった名が、本書をより刺激的なものとしている。もちろん、ここで取り上げている名とは異なる、たとえば横田さんも挙げている「サルトルブランショレヴィナスプルーストマラルメなどの名」も「バタイユに連なることとなる」(274)ものであり、本書はこれらの他の作家や思想家の著作を読み、思考するための一つの補助線となるであろう。
 その他にも、序章で論じられている日本におけるバタイユ受容の歴史や背景、第四章で展開されている『マダム・エドワルダ』の文学作品分析や女性的な思考の問題なども興味深く、学ぶことが多い。本書の帯文にもあるように、「バタイユ研究に決定的な哲学的転回をもたらす新鋭の力作」であり、「哲学すること」や「女性」に関する問題をはじめとした横田さんの今後の研究や実践を期待できる一冊である。

 

國分功一郎・互盛央『いつもそばには本があった。』

 本を読むことは基本的に好きだけど、それでも「本を読んで何になるんだろう?」と思うことがある。本を読むことそれ自体が楽しかったらそれでもいいかもしれないが、楽しいことは他にもあるし、本を読むことよりも大切なこともあるかもしれない。そんな風に考え出すと、本を読むことが嫌になることもある。

 そのような気持ちのときに手にしたのが、國分功一郎・互盛央『いつもそばには本があった。』である。互さんは「この本は間違ってもブックガイドではないし、分かりやすく何かの役に立つこともないだろう」(9)と語っている。確かに、私もブックガイドとしては読まなかったし、例えば「仕事の役に立ちそうだ」という風にも思わなかった。でも、本書を読むことを通じて、自分が生きていくうえで読書をすることが重要な一部になっている(=「いつもそばには本があった」)、そしてそういう生き方は決して間違ってはいないということを実感することができた。

 本書で特に興味深かったのは、國分さんの「幻想に過ぎないではダメだ」という話を受けて繰り広げられる「現実との向き合い方」に関する議論だ。互さんは「確かに「幻想に過ぎないはダメ」だが、「幻想に過ぎないはダメ」だけでもダメ、なのだ」と指摘する。

「幻想に過ぎないはダメ」だから「実体論」に帰るのでも、「現実」に向かうのでもなく、「幻想に過ぎないはダメ」を知るまなざしで「幻想」を見ること。つぶさに見て、それが機能するさまを、それがもたらす結果を考えること。-おそらく、それが今もなお必要なことなのだと感じる。(23)

そして、「現実」とは「自分の目に映っている世界のこと」(36)であり、「書物がもつ機能の一つは、「他者」というものを通して自分の世界を広げていくこと、あるいは世界を見る見方を多様にしていくこと」(36-7)と指摘したうえで、書物と「現実」との関係を次のように説明する。

 思想が、そして書物が「現実」と向き合うとは、他者を通して自分の目に映っている世界が少なくとも一部は壊され、その先に新たな世界の見え方、多様な世界の見え方を探っていくこと、ではないだろうか。(37)

私生活においても仕事においてもそうだが、秩序の安定を踏まえつつも「新たな世界の見え方」「多様な世界の見え方」を手放してはいけないと思っており、そのためにも「本を読んでいる」ので、互さんの話は大変興味深かった。

 次に興味深かったのは、「幻想」の議論とも関連するが、國分さんは本書の最後に「物語」について語っている箇所である。

私は「物語を復権せよ」という思潮には反対である。そのような思潮がもたらすのは、結局、目の前の現実や研究の現状から独立した閉鎖的な空間だろう。「知らないにもかかわらず語る」人が増えるだけだろう。(112) 

 

近代的な国民的物語とは別の仕方で、理念を理解し、現実に接近するための物語が必要である。それはやはり、ポストモダン的なもの、近代思想の問題点を乗り越えたもの、つまりは一人一人が自分なりの仕方で組み立てた物語でなければならないだろう。そのためには一人一人が、様々な物語を体験できなければならない。(113-4)

 一方で、目の前にある現実のみに埋没するのではなく、他方で、現実から離れた空間に閉じこもる こともなく、現実と向き合って現代社会が抱えている諸問題を解決していくことはいかにして可能か、その答えは本書にはもちろん書かれていない。でも、以上のようなことを考えつつ生きることは間違いではなく、その思考のために「いつもそばに本があること」も間違いではない、本書から(勝手に)受け取ったこのメッセージに私は励まされたし、同じように励まされる人はきっといるだろう。 

いつもそばには本があった。 (講談社選書メチエ)

いつもそばには本があった。 (講談社選書メチエ)