yamachanのメモ

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SEALDs関連本の読書メモ

 ずっと読もうと思っていたけど、なかなか読めずにいたSEALDs関連の本をようやく読むことができた。高橋源一郎 × SEALDs『民主主義ってなんだ?』と、SEALDs『SEALDs 民主主義ってこれだ!』の二冊だ。

民主主義ってなんだ?

民主主義ってなんだ?

 
 
SEALDs 民主主義ってこれだ!

SEALDs 民主主義ってこれだ!

 

  「民主主義ってこれだ!」という表現はあまり好きではなかったけど、『民主主義ってなんだ?』の第2部で、「民主主義の複数性」とでも表現できるような内容が議論されていて大変興味深かった。『民主主義ってこれだ!』は、本というよりもパンフレットみたいな感覚で、それがとてもよかった。こういう表現方法がSEALDsのよさであり、多くの人を惹きつけているのだろうと思った。

 ここからは、二冊の本を読んで、特に興味深かった点をメモしておく。

 まず、今回の運動に関して、ブランショを持ち出している点だ。

 

 牛田:(SASPLは)個人が勝手に来てるだけで、集団とか組織って感じじゃないよね、って。個人で自分の頭で考えて、判断して、自分の足でそこに来てる。個人としてたまたまそこに居合わせてしまった人たちっていう、なんとなくの塊なんだよねって話をして。だから結論としてはSASPLとしての意見はない、私個人としての意見があるだけだ。そう話し合って、だからもし(SASPLとしての意見を)聞きたいんだったら、一人一人に聞いてくれって言ったんです。

高橋:それをみんなで確認した日があったんだ。

牛田:はい。それは後からわかるんだけど、モーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』だった。

高橋:たしかにブランショだね。というか、あれは「持続的に存続できない共同体」だよね。すごいこと考えるなあ(笑)。

(『民主主義ってなんだ?』48-49)

 

高橋:牛田くんが挙げていたモーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』(ちくま学芸文庫)っていう本があるけど、アルジェリア戦争(1954~1962)のときパリで警官隊と反対運動の衝突があって、デモ隊が何人も亡くなった。その追悼集会に数十万人もの民衆が集まった。ブランショにとって理想の政治的共同体はそれだったんだ。黙祷だからいっさいコールはない。ある日突然、それまで見えなかった群衆がただ集まって見えるようになる。何も語らず、沈黙したままで立ち尽くし、やがて、何も残さず一人ずつ消えてゆく。何も固定されない、いっさい法が囲い込めない存在。「主権」とは、そのことなのだ。そうブランショは書いている。

(『民主主義ってこれだ!』140)

 

 ブランショ『明かしえぬ共同体』も、まだちゃんと読めていないから、このように言われたらしっかりと読まなくては。昔は共同体に関心があって、以下の本を読みこんでやろうと思っていたけど、それも遠い昔…。

明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫)

明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫)

 
無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

 
何も共有していない者たちの共同体

何も共有していない者たちの共同体

 
無能な者たちの共同体

無能な者たちの共同体

 

 いつか共同体論をまとめて読み直す日が来るのだろうか…。今、僕は具体的な共同体の問題について 直面しているから、そういう点では、この個人的なプロジェクトはそのうち再起動するかもしれない。

 

 次に、SEALDsのメンバーが「賭け」という表現を使っていることが興味深かった。

 

奥田:そもそも安保法制も止められるかどうかわかんないし、その後に選挙もあるし。

牛田:俺は本当に止められると思ってる。

奥田:俺もそう言わせ続けてるし、それに賭けてるけど、賭けに勝ったか負けたかをこの段階から言ってもしょうがないし、それこそ賭けてるほうが大事。それに次ぎ、また賭けられるかどうかでしょ。「負けたらもうやらないの?」「いや、やりますよ」っていう。

(『民主主義ってなんだ?』104)

 

奥田:原発問題のとき「賛成も反対もなく話しあいましょう」って言ってやってきて、なんか1周回ってというか、ここらへんで若者が考えた結果を言っていかなきゃダメだよねって。だからYES/NOをちゃんと言おうて。

牛田:賭けたんだよね。

奥田:そう、賭ける。どうせやるんだったら中途半端なことしない。

(『民主主義ってこれだ!』36)

 

 奥田:学者の人も、どうしてうまく行かなかったのかっていうことのほうがダイナミックに書けるし、しかも確定した事象の証明だから、どうとでも言えちゃう。不確定な何かに賭けるっていうのは、すごく学者としてリスキーだし。

牛田:学問がやることじゃないんだと思う。

本間:学問と政治の峻別。

牛田:そうそう、政治なんだよ、それは。

本間:(学問の)政治離れなんだよ、結局。

牛田:学問は、学問の中で内省して、なぜダメだったのか、なぜ成功したのかってことを追及する。過去を明らかにするのが学問なんだけど、それに対して政治は未来に問うっていうか、漠然とした不確かな未来に賭けてやってみるみたいなこと。

(『民主主義ってこれだ!』103-104)

 

彼らがどういう認識で「賭け」と表現しているのかはわからないが、この「賭け」ということは非常に重要だと思う。そもそも、僕が「賭け」という概念を意識するようになったのは、廣松渉廣松渉 マルクスと哲学を語る』に収録されているインタビュー「哲学とギャンブル」を読んでからだ。

廣松渉マルクスと哲学を語る―単行本未収録講演集

廣松渉マルクスと哲学を語る―単行本未収録講演集

 

 この中で廣松は、「修正、改良主義ならともかく、革命的蹶起ともなればぎりぎり計算しつくしたうえで、つまり戦略・戦術的に充分よんだうえで、こりゃもう最後は賭けるしかないんじゃないですか」(266)と語っている。本気で賭けるなら、ぎりぎり計算し、戦略・戦術的に充分よんだうえでなくてはいけない、そのことを気づかせてくれた言葉である。そして、今回読んだSEALDs関連本からは、SEALDsが戦略・戦術的に運動に取り組んだことが伝わってきたので、その点はとても素晴らしいと思った。

 あと、廣松が面白いのは、哲学には賭けの要素がある、と指摘している点である。だから、学問についての認識は廣松とSEALDsとでは異なっているのかもしれない。そして、この学問に対する姿勢が、SEALDs関連本を読んで興味深かった3点目である。例えば、牛田さんは、メンバー座談会「「本当に止める」フィロソフィ」で次のように語る。

 

牛田:結局、ポストモダニズムっていうか、内省しすぎてたんだよずっと。ネガティブなこと、自己批判しつづけるっていうこと自体が重要なこととされてきたわけ。植民地主義への反省みたいなことから、戦後のヨーロッパの思想とか哲学自体が自己批判の方向に流れていって、それが行きすぎたんだよ。学問が自己批判しかできなくなっちゃった。とにかく自分を批判して追いつめて、そうすると何も新しく切り拓くことができない。っていうところでたぶん俺らの運動が出てきたんだと思う。

(『民主主義ってこれだ!』103)

 

 一方、廣松は、「ギリギリ自分がそうだと自信をもって賭けきる態度、そこにおいてしか真理は成り立たない」と述べ、この考え方こそが真理の賭け的な性格であると語っている(『廣松渉 マルクスと哲学を語る』263-264)。先ほどの「賭け」の議論を踏まえれば、「とにかく自分を批判して追いつめて、そうする」ことによってこそ、哲学(学問)においても、政治においても、新しいことが切り拓けるのだと思う。つまり、学問が内省や自己批判をし続けることができていない、っていう面があるのでは、と思う。

 いろいろと述べたけど、これらのSEALDsに関する著作は、SEALDsに対して批判的な人たちにこそ読んでほしい。そうすることで、SEALDsに対する批判(の一部)は誤解であることに気づくだろう。また、自分と異なる価値観や行動原理を持つ(であろう)人たちの言葉から多くのことを学ぶこともできる。

 僕はSEALDsという団体そのものにはそんなに関心ないし、これからのSEALDsの活動にもそんなに関心はない。でも、個々のメンバーや、SEALDsに影響を受けた人たちが、これから民主主義とどのように関わっていくのかということに注目したい。