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yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

ハイデガー「ヘーゲルの経験概念」を読む②

 今回は、ヘーゲル精神現象学』「緒論」の第二段落を解説した箇所のメモ。第二段落は短く、理解していたつもりだったけど、「ヘーゲルの経験概念」の当該部分の解説は難しい。でも、ハイデガーが扱っているテーマ自体はとても興味深いので、読み進めていく中でまた読み返したいと思う。

 さて、まず気になった点は、「ヘーゲルは以下の段落のすべてにおいて、哲学という名前をもはや使用しない。彼は学という言葉を用いる」(『ハイデッガー全集 第5巻 杣道』154)とハイデガーが語っている点である。この「学」と「哲学」については、研究会で質問した記憶があるけど、正直よくわからなかったし、今でもよくわからない。でも、関心があるところなので、哲学と学について、以下、今後のためにメモ。

哲学とは、学そのものなのである。この名称の意義は、哲学が以前から現存している諸学に己れの手本を仰ぎ、この手本を理想として完全に実現している、ということではない。絶対的形而上学の内部で哲学という名称の占めていた地位を「学」という名称が襲うとき、この名称は自らの意義を、主体〔Subjekt〕の自らを無条件的に知っているという自己確信の本質から汲み取る。主体とは今や真実に、すなわち、今や確実に直前に横たわるもの、<スブイェクトゥム subiectum〔下ニ投ゲラレタモノ・基礎・主語〕>、<ヒュポケイメノン ὑποκείμενον〔元ニ置カレタモノ・基体・主題〕>、哲学が昔から現前するものとして認識しなければならないもの、なのである。哲学が学となったのは、哲学がどこまでも哲学であるからである。哲学の責務は、有るものを有るものとして観照することである。(154) 

 ここからは「主体(の主体性)」についての議論が続く。「主体(性)」については、最近気になる本が出版されている。ジャン=ポール・サルトル『主体性とは何か?』である。

主体性とは何か?

主体性とは何か?

 

  「主体の主体性は、絶対的な自己確信として、「学」である」(155)とハイデガーが述べているように、「主体(性)」について考えることは重要。要チェック。とりあえず、哲学と学についてのメモに戻る。

無条件的な自知は、主体の主体性として、絶対的なものの絶対性である。哲学とは絶対的に認識することである。哲学が学であるのは、哲学が絶対的なものの意志を意欲する、すなわち、絶対的なものをその絶対性において意欲するからである。このように意欲しながら、哲学は有るものを有るものとして観照することを意欲する。そのように意欲しながら、哲学は己れの本質を意欲している。哲学とは学である。(155) 

哲学が学であるのは、哲学が絶対的に認識しつつ自らの仕事を離れないことによってである。(156)

 この後は、「認識すること」と「絶対的なもの」とを分離する考え方の問題について議論している。このあたりの議論は、比較的わかりやすい。そして、第二段落の解説箇所の末尾で、ハイデガーは次のように語る。

早計な誤謬に対する一見批判的なこの恐れは、すでに滞留している真理に対する無批判的な回避である。これに反して、学が自らの本質に手をつけ、それをことさらに受け取るとき、学は自らをすでに吟味したのである。この吟味に所属するのは、学は絶対的に認識することとして、絶対的なものの臨在の中に立っているという知である。しかしながら、以上のことすべては、次の段落で言い表されることに基づいている。(157) 

ここでも「臨在〔Parusie〕」という概念が重要になる。ちなみに、155頁では、「自己確信とは、それ自身の内へと条件づけられた、言い換えると無条件的な自知として、主体の有るものであること〔Seiendheit〕(ウーシア οὐσία〔有ルモノ性・有ルモノデアルコト〕)なのである」と、「ウーシア」という概念も取り上げられている。こうなると、阿部将伸『存在とロゴス』をますます読みたくなる…。

 とりあえず、ハイデガーも「以上のことすべては、次の段落で言い表されることに基づいている」と語っているから、「絶対者だけが真であり、真〔実のもの〕だけが絶対である」(ヘーゲル精神現象学 上』103)から始まる第三段落の解説を後日またメモしよう。