yamachanのメモ

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ハイデガー「ヘーゲルの経験概念」を読む③

 ハイデガーは、「絶対的なもののみが真である。真なるもののみが絶対的である」という命題は「基礎づけることが出来ない」と指摘する(157)。

それらの命題は基礎づけられ得ないものである。それらが定立しているのは、それ自身初めて根拠となるところのものである。それらの中で語っているのは、それ自体においてもまたそれ自体としても、すでに我我の許に有ろうと意欲している、絶対的なものの意志なのである。(157) 

 ここで「意志」という語が使用されている。この「意志」という語は、哲学を学び始めて時には、日常用語に引きずられたこともあり、なかなか理解することができなかったけど、ショーペンハウアー関連の書籍を読んでいく中で、理解を深めることが出来た。特に、鎌田康男/齋藤智志/高橋陽一郎/臼木悦生訳著『ショーペンハウアー哲学の再構築』に収録されている、高橋陽一郎「ショーペンハウアー意志論の再構築」から多くのことを学んだ。

ショーペンハウアー哲学の再構築―『充足根拠律の四方向に分岐した根について』(第一版)訳解 (叢書・ウニベルシタス)

ショーペンハウアー哲学の再構築―『充足根拠律の四方向に分岐した根について』(第一版)訳解 (叢書・ウニベルシタス)

 

 上記論文に限らず、『ショーペンハウアー哲学の再構築』に収録されている諸論文を通じて、哲学に対する理解が深まったと思う。ハイデガーの「意志」とショーペンハウアーの「意志」とに差異があるかどうかは要確認。

 さて、ハイデガーに戻ると、三段落の解説で目立つのは、「解き放つ(absolvere〔解放スルコト〕)」、「解放〔Absolvenz〕」、「解放すること〔Absolvieren〕」、「赦免〔解放宣告〕〔Absolution〕」等の概念群である。「知〔Wissen〕は、諸対象への相対関係から自らを解き放つのである」(158)ともハイデガーは語る。ハイデガー(及びヘーゲル)において、この「解放」という語は何を意味するのだろうか。また時間を見つけて調べてみたい。

 また、二段落の解説の中で注目していた「学」については次のように指摘している。

学の責務はひとえに、絶対的なもの、認識すること、真なるもの、客観的なもの、主観的なものといった語のために、これらの語が指し示しているところのものに手が届くということである。このことはしかし、学がその第一歩からしてすでに絶対的なものの臨在の中に到達している、すなわち絶対的なものの絶対性の許に有る、ということを要求する。もしそうでないとすれば、それは学ではないだろう。(159)

学は、己れの吟味が何処に存するのかをひとえに決定することの出来る法廷に出頭しなければならない。この法廷であり得るのは、絶対的なものの臨在のみである。こうした次第で、絶対的なものの絶対性を判明にすることが、新たに重要となるのである。 

 ここにおいても、「臨在」がキーとなっている。続く第四段落の解説においても、ハイデガーは「学」という語を多用しているのが目に入ってきたから、次回の読書に期待したい。今日読んだ箇所は、今後調べたいことがたくさんあるパートであった。