yamachanのメモ

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ハイデガー「ヘーゲルの経験概念」を読む④

最近はいろいろと忙しくて、ゆっくりと読書をする時間がなかった。特に、『精神現象学』「緒論」の四段落は重要な箇所でであるため、「ヘーゲルの経験概念」の当該箇所も、じっくりと読まなくては、と思っていたら、メモがすっかりと遅くなってしまった。

さて、四段落の解説において、ヘーゲルは「学の苦労」について次のように語る。

絶対的なものは、己れの臨在に入り込む歩みを、眠っているときに我々に与えるものではない。この歩みが奇妙なほど困難であるのは、人が思っているように、我々がどこか外側からしてようやく臨在の中に到達しなければならないからでは決してなく、むしろ臨在に対する我々の関係を、臨在の内部でしたがって臨在に基づいて生み出し、臨在の前へともたらすことが肝心であるからである。それ故に学の苦労というものは、認識する者が、自らをあくまでも固持しながら、右の歩みに従事して困憊するということによっては、汲み尽されないのである。学の苦労はむしろ、臨在に対する学の関わり合いに由来するものである。(160)

絶対的なものの中でその絶対的なものの現前態を現象にもたらし、この現前態の中で自らを現象にもたらすという苦労に対応するのが、学の苦労である。(161)

この「学の苦労」で思い出したのが、『ハイデッガー全集第25巻 カントの純粋理性批判現象学的解釈』の冒頭部分である。

哲学は人間のもっとも根源的な労苦の一つである。人間の労苦について、カントはこう語っている。「しかしながら、人間の労苦は或る永続的な循環をなして回転しており、かつていたことのあるところに帰ってくるものである。それゆえ、今は埃の中に埋もれている資材でも、あるいは加工されて荘厳な建物に変ずることもありうるのである。」人間の根源的な労苦がまさしく永続性をもつのは、問われるべき性格を最後まで脱することがないという点においてであり、したがってまた、常に同じところに帰還し、その帰還したところでのみ、みずからの力の源泉を見出すという点においてである。…哲学とは、少数の同じ問題の展開と解明をめぐる労苦であり、自己のうちに常に出現してくる暗黒に対して人間的実存が行う、自立的な、自由な、根本的な闘いである。(3-4)

 

「学の苦労」と「哲学の労苦」…これ自身も興味深いテーマであり、この「苦労」「労苦」にこそ、僕は魅かれているような気がする。『カントの純粋理性批判現象学的解釈』もゆっくりと読みたいなぁ。

カントの純粋理性批判の現象学的解釈 (ハイデッガー全集)

カントの純粋理性批判の現象学的解釈 (ハイデッガー全集)

 

 「ヘーゲルの経験概念」に戻ると、「緒論」四段落で重要なのは、ハイデガーが「ヘーゲルは、段落の真中のこの箇所に、決定的な「しかし」を据えているのである」(161)として引用している次の文である。

「しかしながら学というものは、それが登場するということにおいて、それ自身一つの現象なのである。」(161及び163)*1

ここからハイデガーは、「学が登場するということ」(162)について説明する。

学が登場するということは、どういう状態であるのか。登場する以上、学は現れ出なければならない。…額は絶対的に表立って登場する。それ故に、額に相応しい現れ出ることとは、学が己れ自身を、学が自らを表立たせながら運ぶこと〔自らを産み出すこと〕において展示する、したがって現れ出る知として設定する、という点にのみ存し得る。学が登場し得るのは 、ひとえに、現れ出てくる知の展示を学が完遂するというようにしてである。…

学は、己れが現れ出ることにおいて、己れの本質の豊かさの姿で自らを紹介している。…単に現れてで来る知というものは、断じて消失してはならないのであり、むしろ自らの現れ出ることへと入り込まなければならない。そのことによって、この知は、真ならざる知として、すなわち、まだ真ではない知として、絶対的な知の真理の内部に現れ出る。学は現れ出る知が表れ出ることとして己れを産み出すのであるが、現れ出る知を展示することは、この知が現れ出るなかで、この知の外見を相手取らざるを得ない。…学が現れ出るということは、単なる見かけで有るためにも外見がその上さらに必要とする、あの輝くことの中に自らの必然性を有するのである。(162ー163)

 そして、「しかしながら、学というものは、それが登場するということにおいて、それ自身一つの現象なのである」というヘーゲルの命題について、「両義的に、しかも高度の意図に基づいて述べられている」(163)として、ハイデガーは次のように語る。

真ならざる知が空虚に現れ出ることも、そうした知がそもそも姿を示す限りではやはり一つの現象ではあるが、学はこのような意味において単に現象の一つであるのではない。むしろ学は絶対的に認識することとして光線であり、絶対的なもの、すなわち真理の光はそれ自身、かかる光線として我々を照らすという比類の無い意味において、学はそれ自身としてすでに現象なのである。…現れ出るということは、本来的に現前することそのこと、すなわち絶対的なものの臨在ということである。 

「学は現象の一つではなくて、それ自身として現象である」…「学」にここまで真面目に向き合うヘーゲルハイデガーはやはり面白い。そして、「現れ出る知の展示」「現象する知の叙述」の分析につながっていくのである。

*1:平凡社ライブラリー訳の『精神現象学』では、「もっとも学自体、登場してくるというその過程においては、やはり一つの現象なのである」(104-105)と訳されている。