yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

『<日本哲学>入門講義』を読む

仲正昌樹『<日本哲学>入門講義-西田幾多郎和辻哲郎』を読んだ。本書自体が分厚いし、西田幾多郎善の研究』と、和辻哲郎『人間の学としての倫理学』を手元に読んだこともあって、少し時間がかかってしまった。

〈日本哲学〉入門講義

〈日本哲学〉入門講義

 

善の研究』と『人間の学としての倫理学』を読み解くために役立つだけではなく、哲学用語・概念を理解するためにも役立つし、哲学史を学ぶこともできる一冊で、とても勉強になった。

また、現代思想への言及箇所も大変興味深い内容であった。例えば、西田の「現在」について説明している箇所で、デリダの「現前」と「再現前化」を取り上げ、「この辺りの西田の議論は、粗い形ですが、そうした問題(「現前」と「再現前化」の問題)を凝縮して表現しているように思えます」(37)と、仲正氏は指摘している。そして、特に興味深かったのは、和辻哲郎の読解について言及している、次のような箇所である。

和辻のカント読解は、ハイデガーフーコーデリダがやっているように、かなり名人芸的です。テクストの相互の関連や、他の哲学者からの影響、そのテクストが書かれた当時の本人の書簡や日記、友人や弟子の証言など、細かい情報を総動員して、著者の意図を一つ一つ細かく再構成していく、純粋に文献学的なやり方とはかなり異質です。いろんなテクストの間に、相関していそうな要素を見つけて、大胆に想像力を発揮して、繋いでいく。しかも、自分の体系にうまく取り込めるよう、戦略的に配慮しながら、それをやる。和辻は、そういうハイデガーデリダのような名人芸を、漢文や日本の古典にも当てはめ、西洋の哲学史と日本の思想史を架橋するような形でやるので、彼ら以上に名人芸っぽい感じさえします。(265)

和辻はメジャーな思想家のマイナーなテクストに意義付けするのが得意な感じですね。この辺に、デリダのフランス現代思想の理論家に通じるところがあるように思えます。(304)

 このように、西田や和辻と現代思想との関連について考えるのは楽しい。しかし、こんな時に聞こえてくるのは、廣松渉の次の言葉である。

京都学派のイデオロギーをそのままポストモダンという式のかたちで、いま評価するというわけにはいかないだろうと思います。ある種の人たちは、それをつまみ食いしますが。あちこち見て、これはデリダに近いとか、これはルーマンに近いとかいって議論するけれども、こういうのは素人談義であってね。面白おかしくやるときはいいですけど、だから『現代思想』向きかもしれないけれども(笑)、少なくとも学問的なレベルでは、お話にならないと思います。(廣松渉+マイケル・サントン「西田哲学と東西の哲理」『新・廣松渉を読む』70) 

僕は学問レベルではなく、個人的な楽しみとしていろいろと学んでいるだけではあるが、この廣松の言葉を無視しないで、「真面目に」京都学派や現代思想を読んでいきたい。