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yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

ヘーゲル研究会メモ

参加させていただいている、ヘーゲル精神現象学』を読む研究会で議論になって気になったことをメモ。

①aufhebenについて

精神現象学 上』の51ページに、「廃棄〔止揚、以下頻出する廃棄の場合も同様〕」という記述があり、aufhebenの意味や解釈について議論になった。そこで、昔ノートにメモしていた内容を説明したけど、帰ってきてもう一度ちゃんと確認。ジャック・デリダ『哲学の余白 上』に収録されている、「竪坑とピラミッド」と「人間の目的=終わり」からのメモ。

哲学の余白〈上〉 (叢書・ウニベルシタス)

哲学の余白〈上〉 (叢書・ウニベルシタス)

 

記号の過程は一つのアウフヘーブングである。例えば次のよう言われる。「直観はまず直接的には、与えられたもの(ein Gegebenes)、空間的なもの(ein Räumliches)であるが、それが記号として用いられるかぎりにおいてはaufgehobene[すなわち上へ揚げられた〔élevée〕と同時に職務から退かされて別のものと交代させられたもの〔relevé〕、言い換えれば或る種の昇進にあたって後を継いで交代〔reléve〕するものに取って代わられたもの、という意味で。この意味で記号は感性的-空間的直観の交代者〔=止揚 reléve 〕である]としてのみ存在するという本質的規定を帯びるに至る。知性とは直観のこうした否定性である。(「竪坑とピラミッド」168)

Aufhebenとは次の意味においてreleverである。すなわち≪relever≫が位置をずらすこと、高めること、交代させること、昇級させることをただ一つの運動において同時に言わんとする、という意味で。意識は心ないし人間のアウフヘーブングであり、現象額は人間学の「止揚」である。(「人間の目的=終わり」215)

また、訳注では次のように説明されている。

デリダヘーゲルの「止揚すること」aufhebenの仏訳として用いているreleverというフランス語は、re+leverからなり、「再び上へ上げること」を意味する。leverは「上へ上げる」という意味から、「起立させる」「取り集める」「取り除く」という意味になる。したがってreleverとは「(倒れたり落ちたものを)再び起こす・引き上げる・再建する・復興する」の意味であり、また「引き継ぐ・交代する」という意味にもなる。さらにエクリチュールとの関連で言えば、releverは「引き立てる」という語義から、「指摘する・書き留める・浮き彫りにする」という意味にもなる。(353)

今回の研究会を機会に、両論文とも読み直そう。

②「一般的なもの」と「普遍的なもの」について

精神現象学』の翻訳で、「一般的(なもの)」と「普遍的(なもの)」という用語が使われていが、そこに意味上の差異はあるのか、という問題。なんかで読んだことあるなー、と思って探していたら、柄谷行人トランスクリティーク-カントとマルクス』に説明があった。

トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)

トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)

 

 カントは一般性と普遍性を鋭く区別していた。それはスピノザが概念と観念を区別していたのと同様である。一般性は経験から抽象されるのに対して、普遍性は或る飛躍なしには得られない。最初に述べたように、認識が普遍的であるためには、それがア・プリオリな規則にもとづいているということではんくて、われわれのそれとは違った規則体系の中にある他者の審級にさらされることを前提している。(147)

個別性-一般性という対と、単独性-普遍性という対を区別しなければならない。たとえば、ドゥルーズは、キルケゴールの「反復」に関してこう述べている。≪わたしたちは、個別的なものに関する一般性であるかぎりの一般性と、単独的なものに関する普遍性としての反復とを対立したものとみなす≫(『差異と反復』財津理訳、河出書新社)。ドゥルーズは、個別性と一般性の結合は媒介あるいは運動を必要とするのに対して、単独性と普遍性の結合は直接(無媒介)的であるといっている。これは、別の言い方でいえば、個別性と一般性は、特殊性によって媒介されるが、後者はそうでないということである。ロマン派においては、普遍性は実は一般性というべきものである。たとえば、ヘーゲルにとって、個別性が普遍性(=一般性)とつながるのは、特殊性(民族国家)においてであるのに対して、カントにとって、そのような媒介性は存在しない。それはたえざる道徳的な決断(反復)である。そして、そのような個人のあり方は単独者である。そして、単独者のみが普遍的でありうる。(150)

カントの言葉でいえば、一般性-個別性は経験的であり、普遍性-単独性は超越論的である。前者における綜合が想像物にすぎないことを明るみに出すのは、後者の超越論的批判である。(154)

ところで、われわれは単独性について語ることができない。なぜなら、言語はいつもそれを個別性-一般性の回路に引き戻してしまうからだ。たとえば、われわれは「この物」や「この私」が特異であると感じている。だが、それをいおうとすると、たんに一般概念の限定化でしかなくなる。(157)

そして、柄谷は、『精神現象学』を引用して、次のように指摘している。

彼がここでいっているのは、言葉で「言い表わす」かぎり、いま、ここの個別性(=単独性) はすでに一般性に属しており、またそうでないような個別性は「思いこみ」にすぎないということ、表現できないものさえ言語によって成立するということ、いいかえるならば、単独性は言語の結果においてしかありえないということである。(158-159)

いやー、柄谷行人の著作もやっぱり面白いなぁ。本書も落ち着いたらまた読み直そう。