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読書メモ:ヘーゲルとフッサール

村井則夫『解体と遡行-ハイデガー形而上学の歴史』の「第五章 媒介の論理とその彼方-ハイデガーヘーゲル精神現象学』解釈をめぐって」を読み始めると、フッサール(が打ち建てた現象学)と、ヘーゲル(に代表される思弁的・形而上学的体系)との関係について記述している箇所があったのでメモ。

解体と遡行―ハイデガーと形而上学の歴史

解体と遡行―ハイデガーと形而上学の歴史

 (フッサールが打ち建てた現象学では、)ヘーゲルに代表される思弁的・形而上学的体系は、現象学の対極に位置付けられる。実際にフッサール自身が『厳密な学としての哲学』において、「ヘーゲルは自らの方法と理論の絶対的な妥当性を主張しているが、その体系には、哲学の学問性を初めて可能にする理性批判が欠けている」と語っているように、そのヘーゲル評価は極端なまでに否定的である。(163)

フッサールヘーゲルについて言及している箇所があったとは…。というわけで、当該箇所について調べるために、とりあえず手元にある『フッサール・セレクション』を取り出してみる。

フッサール・セレクション (平凡社ライブラリー)

フッサール・セレクション (平凡社ライブラリー)

本書において、当該箇所は次のように翻訳されている。

いかにヘーゲルが 彼の方法と学説の絶対的な妥当性を主張しようと、彼の体系には哲学の学問的性格を初めて可能ならしめる理性批判が欠如している。そしてこのことと関連してヘーゲルの哲学は、ロマン主義の哲学一般がそうであるように、厳密な哲学を構成しようとする衝動を弱め、もしくは歪曲するような形で後世にその影響を与えている。(60)

さらに、村井則夫『解体と遡行』に戻ると、先ほど引用箇所の脚注で次のようなエピソードが紹介されている。

のちにハイデガーの弟子となるエルネスト・グラッシが、一九二四年にフッサールを訪れた際の逸話を語っている。自らの哲学上の素養を、「スパヴェンタ、クローチェ、ジェンティーレの伝統に即して、再び体系的で、歴史的にはヘーゲル的な哲学を目指している」と自己紹介したグラッシに対して、フッサールは、「そうした問題意識の枠組みの中で教育されたのなら、もう取り返しがつきませんし、何の見込みもありませんよ」と言い放ったという。(212) 

取り返しがつかないし、何の見込みのない…なんと手厳しいフッサール。でも、ヘーゲルに対してこんなにも否定的ということは、逆に言えば、それだけヘーゲルを意識しているような気もする。

そして、村井氏は次のように指摘している。

現象学が標榜する事象の直接的記述、あるいは明証性の理解は、素朴な直接性や事実的な所与性とは無縁であり、そこには事象事象として顕現させるための幾重もの方法論的反省が介在している。フッサール現象学が経験の純粋な取得とそのための反省を中核としているもの考えるなら、まさに「意識の経験の学」を目指し、その反省的側面を体系の構成要素として組み込んでいったヘーゲルの「現象学」が二十世紀の現象学と真の意味で対立するものであるかどうかは、いまだに再考の余地があるだろう。(164-165) 

この指摘は重要で、フッサール現象学ヘーゲルの「現象学」は関係ないという意見に僕は納得できず、フッサールを研究している方にも両者の関係を質問したり、自分でもいろいろと調べたりしているが、まだ考えをまとめることができていない。でも、「いまだに再考の余地がある」という言葉に励まされつつ、引き続き要勉強。