yamachanのメモ

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知は希望のなさに耐える勇気

『群像 2016.1』の特集「21世紀の暫定名著:一般読書篇」で、大澤真幸氏は次のように語っている。

あるインタビューでアガンベンが、知というのは希望のなさに耐える勇気なんだ、と語っています。僕らは論文を書く際、最後にちょっといいことを付け足したくなるわけですよ。だけど、本当は希望がないということも含めて書かなければいけないと思うんです。(33)

今年は、「希望」や「勇気」という言葉をよく目にした。立ち上がる勇気、声を出す勇気、立ち上がり、声を出している人たちから見えてくる希望…。僕はこういうものに同意できなかった。だからこそと言うべきか、この大澤真幸氏、いやアガンベンの言葉に共感を持った。そう、今必要なのは、この「希望のなさに耐える勇気」としての「知」ではないのか。「耐える」ということは「何もしない」ということではない。「希望のなさに耐える勇気」=「知」を持ちながら、それぞれのやり方で実践することが大切なのである。

また、大澤真幸氏が、思想や学問の「力」について語っている箇所も興味深い。

 日本はこれまで、西洋の思想や学問をキャッチアップしながらやってきました。それが敗戦後になって、自分たちの直面している問題を考えるときに力にならなかったんですよね。日本の敗戦問題がデリダの本に直接に書いてあるわけじゃないからね。デリダデコンストラクションという概念で戦死者をどう考えるかといった議論が出てくれば面白かったんだけど、それもなかった。(37)

この話を受けて、松原隆一郎氏が指摘していることも重要。

僕は専門主義の弊害という問題が大きいと思う。大学では、学生たちが博士号を取るために専門的な論文を書きますけど、そのためのフォーマットがあって、専門以外のことを考えたらいけないといった雰囲気があります。たとえば、デリダならデリダをみんな一生懸命読みますが、デリダの本に書かれていない日本の敗戦に関しては議論ができなくなるというのが今の専門主義です。応用可能性がない。(38)

二人に共通していることは、思想や学問の「応用可能性=力」ということであり、僕もこの「力」の無さについては同意せざるを得ない。この「力」を鍛える=専門主義を脱却するために、とりあえずはいろいろな(専門外の)場に足を踏み入れていくようにしている。

あと、大澤真幸氏が、僕も大好きな本、郡司ペギオ-幸夫『原生計算と存在論的観測』について言及している箇所が面白い。

原生計算と存在論的観測―生命と時間、そして原生

原生計算と存在論的観測―生命と時間、そして原生

 大澤(真):これ(=『原生計算と存在論的観測』)は生命を数学的に形式化すれば哲学にもつながるという話で、本当にすばらしい本です。…(29)

…『原生計算と存在論的観測』で初めて数学的カオスのエッセンスを理解できたような気がして感激しました。こういう孤立した仕事を続けている人はなかなかいません。ただ、郡司さんの本が一般に読まれているかどうか微妙なところですよね。せめて彼に僕ぐらいのコミュニカビリティーがあればいいけど、彼はほかの人が自分のどこを理解できていないかということに無頓着なんですよ(笑)。

池田:郡司君は誰よりもアクロバティックなところがあって面白いんだけど、誰かに自分の書いた本を人がわからないということが全くわかってないよね。僕は半分くらいしか理解できない。完全に解釈できる人が普通の日本語に訳してくれたらいいんだけど(笑)。(32)

 素晴らしい指摘である(笑)。