yamachanのメモ

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抵抗の精神について

小泉信三『平生の心がけ』を読んでいて、興味深い箇所を発見。

平生の心がけ (講談社学術文庫)

平生の心がけ (講談社学術文庫)

 

本当にその通りと思うところなので、長くなるけど引用しておく。

嘗て軍部が国を誤ったという。たしかに一部将校等の分を忘れた言動には、目に余るものがあった。けれども、軍人という軍人が、皆な心からそれに同調していた訳ではない。中にはそれを苦が苦がしい越権の行動だと思っていたものも、確かにあったと思う。けれども、当時の勢いとして、自ら軍部内にいて、軍人の分際と反省とを説き、同僚の行為の僭越を指摘することよりも、声を合わせて政党の腐敗を罵り、国民の無自覚無気力を鳴らす方が、軍人としては遥かに容易かった。人々はその易きに就いて、そうして心着けば、何時か、国は悲運に導かれていたのである。

大学の学長または教授等が大学の自治を唱える。固より理由のあることである。けれども、大学の学長や教授等にとって、部外に対して大学の自治権を主張することよりも、内に向って大学の責任を論じ、大学教授等が果たして遺憾なくその職責を行っているか否かを問う方が、遥かに難く、遥かに多くの抵抗力を要することを、忘れてはならぬ。ここでも多くの場合、人々は難きを避け、外に向っての抵抗の形で、内に向っての抵抗精神の欠乏もしくは虚弱を露呈する。少なくとも彼等は、軍部内における自己批判の無力を難ずることは出来ない筈である。自己批判の必要なる一事は彼れも此れも変わりはない。それの行われないことは、或いは行われも不充分であることは、-均しく抵抗力の欠如を意味するものである。

同様の例は、なお幾つでも累ねられる。文筆家が集まって、出版物に対する取締り、または判決を批判するとする。一座のものは、取締官吏や検事判事の無理解を難ずるにきまっている。そうして、それも理由のないことではない。けれども、考えなければならぬ。かかる場合に一座の空気に逆らって、取締りや判決に正当の理由があると、言明することは、たといそう信じても、それは仲々容易いことではない。勿論私は、一斉に取締りや判決を非難する人々が、皆な悉く雷同の易きに就いているとは言わない。彼等の或る者は、たしかに真剣にそう信じ、たとい自分が、一人になってもその説を枉げないであろう。けれども、また他の或る者は、判決必ずしも無理ならずと思いつつも、同業同僚の間に異を樹てることを好まず、勢いに押され、長い物に巻かれて、どうかすると、却って仲間の者よりも一層声を大にして、当局の横暴愚劣を罵っているかも知れない。この点文筆家の或る者の心理が、前記軍部内の或る者のそれと必ず異うとは、断定すべき理由がない。この場合、抗議の大声は、必ずしも抵抗精神の旺盛を示さず、却ってその反対であるかも知れないのである。(157-8) 

人が「外部」に向って批判している様子を見ても、そこに抵抗精神を感じることができないことがあるのは、小泉が指摘しているように、自己批判が欠如しているからであろう。特に、小泉が取り上げている教授や文筆家にとって「批判」は重要なものであるから、この「内部/外部」の視座に対して敏感でなければならない。

抵抗や抗議が「力」を持たないのは、抵抗・抗議対象である「外部」が横暴愚劣だからではなく、自己批判が欠如しているからかもしれない、という懐疑の姿勢が、今は必要となっているのかもしれない。