yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

ミシェル・フーコー『生政治の誕生』

 フーコーは『生政治の誕生』の中で、ハイエクのことを「現代の自由主義の定義づけにとって非常に大きな重要性を持っていました」(129)と取り上げ、ハイエクについて何度か言及している。気になったところをメモ。

経済は一つのゲームであり、経済に枠組を与える法制度はゲームの規則として考えなければならないということ。法の支配と法治国家によって、統治の行動が、経済ゲームに規則を与えるものとして形式化されるということです。その経済ゲームを行う者、つまり現実の経済主体は、個々人のみ、あるいは、こう言ってよければ、企業のみです。国家によって保証された法的かつ制度的枠組みの内部において規則づけられた企業間のゲーム。これこそ、刷新された資本主義における制度的枠組みとなるべきものの一般的形式です。経済ゲームの規則であり、意図的な経済的かつ社会的管理ではないということ。経済における法治国家ないし経済における法の支配のこのような定義こそ、ハイエクが、非常に明快であると私には思われる一節のなかで特徴づけているものです。彼は計画について次のように語ります。まさしく法治国家ないし法の支配と対立するものとして、「計画は、一つの明確な目的に到達するために社会の資源が意識的に導かれなければならないということを示す。法の支配は、逆に、その内部において個々人が自らの個人的計画に従って自らの活動に身を委ねるような、最も合理的な枠組をつくろうとするものである。」あるいはまた、ポランニーは、『自由の論理』のなかで次のように書いています。「法システムの主要な機能、それは、経済的生の自然発生的秩序を統治することである。法律のシステムは、生産と分配の競争メカニズムが従う諸規則を発達させ、強化しなければならない。」したがって、ゲームの規則としての法律システムがあり、次いで、自然発生的な経済プロセスを通じてある種の具体的秩序を表明するようなゲームがあるということです。(213-4)

数年前に、彼(ハイエク)は次のように語りました。我々が必要とするもの、それは、生ける思考としての自由主義である。自由主義は、ユートピアを作り上げる作業を社会主義者たちにずっと任せてきた。そしてこのユートピア的あるいはユートピア化する活動によって、社会主義はその力強さとその歴史的ダイナミズムを得たのだった。そこで、自由主義にもやはりユートピアが必要である。我々の役目は、自由主義を統治の技術的代案として提示することよりもむしろ、自由主義ユートピアをつくること、自由主義の様態にもとづいて思考することなのだ、と。思考、分析、想像力の一般的スタイルとしての自由主義。(269)