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ケルゼン「現代民主制論批判」(『ハンス・ケルゼン著作集Ⅰ』所収)

 ケルゼンによるハイエク批判のメモ。

徹底的に分権的で、殺人と近親相姦の禁止のような最低限の規制のみをもつ原始的な社会秩序とて、集権化のある段階である。それに比べれば、近代国家はかなりの範囲の規制対象をもち、はるかに集権度が高いが、全体主義とはいえない。確かに社会主義は、経済生活の集権化であるから、団体主義ではあるが、経済の集団化が人間生活全体の集団化を必然的にもたらすものかどうかがまさしく問題である。「経済生活の集権化は必然的に人間生活全体の集権化もたらす」と考える人々は、次のように説く、「経済生活と他の人間生活とを分離することはできない。なぜなら、経済以外の目的を実現するためにも、経済的手段が不可欠だからである。経済はあくまで目的のための手段であって、究極目的は経済的なものではない。例えば宗教的信仰を共有する人々が、その信仰箇条の求める共同の礼拝を行おうとすれば、その場としての建物が必要となる。即ち精神的必要を実現するための経済的手段が必要となる。そこで経済的手段が中央権力の統制下に置かれている社会主義社会においては、目的の実現はこの権力の決断に依存する。即ち権力は非経済的目的をも統制することになるのである。従って国民はこの目的実現を自由に実現する訳にいかなくなる」、と。それはその通りであるが、資本主義社会において、状況がこれと異なっているであろうか?計画経済でなければ、非経済的必要の実現は自由に探求され得るものであろうか?先の例でいえば、信者たちに礼拝のための建物を買う金がなければ、銀行の融資を求めるかも知れないが、銀行の方でもっと確実で有利な投資先があれば、融資を断るであろう。もちろん資本主義社会では銀行間に競争があり、彼らは別の銀行に融資を求めることもできる。しかしこれとてうまくいくとは限らない。融資してくれる銀行が見つからなければ、資本主義社会においても、宗教的欲求を経済的手段を用いて実現することは、社会主義社会の場合と同様に、自由ではないこととなる。仮に憲法が信教の自由を保障していてもである。ハイエクは、資本主義社会においては、「困難は、誰かが我々の目的に反対するからではなく、誰かが同一の手段を需要するから生ずる」のだと言う。しかし非経済的目的のための経済的手段を「誰かが需要すれば」、自由ではないではないか。礼拝のために建物を必要とする者の立場から見て、その必要な経済的手段を与えることを拒否する者が銀行であろうと、国家であろうと違いはない。また「社会主義経済体制においては、仕事を選ぶ自由がなくなる」という主張もある。それはその通りだが、資本主義経済体制においても、その自由を享受するのは特権的な少数者である。職業選択の自由を立法的・行政的・司法的に制約することは禁止されているにも拘わらず。(291-2)

ハイエクは資本主義者社会を擁護して次のように言う。曰く「貨幣は人間が発明したものの中で最も偉大な自由の道具である。現在の社会において、貨幣こそが、貧しき者に驚くべき選択の範囲を開いた。現在貧者が有している選択範囲は、数世代前に富者に開かれていた範囲より大きい」と。しかしそれは貧民が貨幣を有していればの話である。しかし「カネ持ちの貧民」とは形容矛盾ではないか。(312)

 「現代民主制論批判」のハイエク批判の箇所では、立法(法創造)、行政・司法(法適用)における民主化の問題も議論されており、大変勉強になる。

ハンス・ケルゼン著作集 1 民主主義論

ハンス・ケルゼン著作集 1 民主主義論