yamachanのメモ

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西部邁が語るジャック・デリダの脱構築

 西部邁の本は数冊読んだことがあり、今いろいろと読み返しているところ。『虚無の構造』では、ガタリの欲望機械やデリダ脱構築についても言及している。今回は、デリダ脱構築について語っているところをメモ。

 ここで、ジャック・デリダのいう「ディコンストラクション」に一言の解説を加えておくべきであろう。既存の論理を脱構築する能力も性向も、そもそも人間の精神に、ということはその言語に、秘められている。だが、いったい、どの方向にいかなる速度で脱構築するのかが問題である。それについて選択肢がないというのでは決定論に陥る。簡単な場合でいうと、モダニズムへの脱構築はプレモダニズム(記憶の回復)としてもポストモダニズム(想像の解放)としても可能なのだ。いずれをいかに実現するかはやはり選択さるべき課題である。そしてそれが選択であるからには、そこに選択の基準があるとしなければならない。

 元来、脱構築は「反構築」と同じではないはずだ。既成の構築を脱しつづける過程で、またその極限で、実在(真理)といえるほどのものを感得したり把握したりしたいという構築の構えがあればこそ、それは反構築とは、つまり破壊主義とは異なるのである。そのことは、論理の脱構築のためにも論理の構築が必要であるということによって、あらかじめ示唆されてもいる。ヴィトゲンシュタインはそれをさして「もしドアの開閉を望むならば、蝶番は固定されていなければならない」といった。つまり選択基準という蝶番が外れていなければ、脱構築というドアの開閉もままならぬということである。

 見逃すわけにはいかないのは、選択基準が「固定」されているということである。我が国で思想家を名乗るものたちの多くは、ヴィトゲンシュタインがこの意味で保守思想家であることを知ろうとしない。選択基準が固定されているのは、言葉が「ユーセジ(慣習的用法)」を必要としている、ということを意味している。ここでの論述に即していうと、歴史の産物たる価値と慣習から選択基準を導き出すという能力を失うということは、言語の活動力をなくすということにほぼ等しい。事実、現代人の言語能力ははなはだしく減退している。そして、これが欲望機械に身をあずけるわけにはいかない最大の理由となる。言語能力を喪失することが人間の欲望であろうはずがない。言語能力を存分に発揮するのが人間にとっての最高の欲望である、といったほうが適切なくらいである。さすれば、欲望機械なるものの制御棒がメルトダウンしているために、現代人の欲望が情報・技術の新奇さという放射能によって汚染されている、とみてさしつかえないであろう。(94-5) 

  「言語能力を存分に発揮するのが人間にとっての最高の欲望である」と語っていた西部邁氏が、2014年に出版された『大衆への反逆』(文春学藝ライブラリー)の「私のことなど御放念いただきたいー文春学藝ライブラリー版あとがきにかえて」で、「生きているあいだは、オツムが動きを止めないかぎり、何事かを問われれば、私は何らかの応答をするのではあろう。しかしそんな半死半生の言葉に意味が宿ってくれるわけがない」(385)と語っているのは、何とも言えない気持ちになる。西部邁氏の著作、引き続き読んでいきたい。

虚無の構造 (中公文庫)

虚無の構造 (中公文庫)

 

 

大衆への反逆 (文春学藝ライブラリー)

大衆への反逆 (文春学藝ライブラリー)