yamachanのメモ

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山本圭『アンタゴニズムスーポピュリズム<以後>の民主主義』

 2014年に、エルネスト・ラクラウ『現代革命の新たな考察』の翻訳書を出版して以降、毎年のように著書・訳書を出版してきた著者が、各媒体で執筆してきたものを加筆・修正してまとめられたものが本書である。それぞれ異なる媒体で執筆されたものであるにもかかわらず、各論考を関連付けるような構成になっており、一冊の本としてまとまりがある内容になっている。
 著者は本書のテーマとして、「敵対性(アンタゴニズム)」(12)と「<公的でないもの>の政治学」(19)を挙げている。私が触れてきた政治学では、「敵対性」ではなく「我々(=同質性)」、「公的でないもの」ではなく「公共性」について語られることが多かったため、これらのテーマについて議論が展開されている本書は大変興味深いものであった。
 さらに、本書に通底しているのは、『アンタゴニズムス』というタイトルからも分かるように「複数化」の問題、そして「両義性」という問題である。例えば、「私たちが目撃しているのは、むしろ複数の敵対性、すなわち社会のいたるところで、いたるところから、これまで自明視されていた基礎付けに異議を申し立てる「アンタゴニズムス」にほかならない」(16)、「公的領域における複数性のみならず、公的領域そのものの複数化が重要になるということなのである」(150)、「バトラーの思想にはひとつではない、複数の民主主義へのチャンネルが存在する」(182)といったように、著者は「複数」に着目している。「両義性」という観点では、「二つの享楽を、つまり人民とマルチチュードを往還するような両義的な戦略にこそ、ラディカル・デモクラシーの未来は賭けられているのだろう」(91)、「不和と不快感を抱えつつも、それでもまずは一緒にいようとする、こうした付かず離れずの距離感が、バトラーのデモクラシー的連帯への展望を支えている」(182)、「中途半端さこそ、アゴニズムをすぐれてポスト基礎付け主義的な理論にしている」(250)、「ハンナ・アレントは、政治的な領域においては、真理よりも意見が決定的であると述べたが、ここで「真実らしさ」とはむしろ、真理と意見のいずれでもない、いわば中間物であり、真理の外観はすぐれてヘゲモニーの産物である」(261)といったように、「両義性」という言葉を使わずとも、「付かず離れずの距離感」「中途半端さ」「中間物」等、「両義性」を意味する語句が本書のいたるところに見受けられる。また、著者自身も「政治学現代思想のあいだで仕事をしてきた者」(277)であり、本書自体が「境界でこだまする不審なメッセージ」(9)にもなっている。
 本書を2020年の4月に読んで思い浮かべることは、やはりコロナ下の社会といかに向き合うことができるのか、という問いである。今我々は「感染している/感染していない」「感染する/感染しない」ではなく、「感染しているかもしれない」「感染するかもしれない」という宙吊り、半端さの状態を生きているとも言えるのであり、そのような状況において必要なのは緊急事態宣言でも楽観的無策でも諦観でもなく、「意志のオプティミズム」(60-1)ではないか、そのようにも思えてくる。そこには完全な、そして最終的な解決は無いかもしれないが、「むしろその不在こそ…政治的作為のための空間を開いていると考え」*1、国家や社会に対する批判を途絶えさせてはいけない、このようなことに気づかせてくれる「力」を本書は持っている。
 なお、先に引用した「意志のオプティミズム」に限らず、「節合」「等価性の連鎖」「戦略」といった概念が本書には出てくるが、これらの概念を理解する上でも、同著者の『不審者のデモクラシー』を読むことをオススメする。『不審者のデモクラシー』と『アンタゴニズムス』は、現代社会そして未来社会について考える際の導きの糸となるであろう。

アンタゴニズムス: ポピュリズム〈以後〉の民主主義

アンタゴニズムス: ポピュリズム〈以後〉の民主主義

  • 作者:圭, 山本
  • 発売日: 2020/02/25
  • メディア: 単行本
不審者のデモクラシー――ラクラウの政治思想

不審者のデモクラシー――ラクラウの政治思想

  • 作者:山本 圭
  • 発売日: 2016/05/19
  • メディア: 単行本

 

*1:山本圭『不審者のデモクラシー』159