yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

宇野重規『民主主義とは何か』

 本書のタイトルどおり、「民主主義とは何か」という基本的な問いに向き合った一冊。民主主義の歴史を振り返るだけではなく、ルソー、トクヴィル、ミル、ウェーバー、シュミット、シュンペーター、ダール、アーレントロールズといった政治思想家についても解説している。また、第五章では日本の民主主義の起源を探りつつ、日本における民主主義の問題について言及している。このようなアプローチにより、「一人ひとりの読者がそれぞれに「民主主義を選び直す」」(8)ということを試みる。その際の批判的視座となるのが「参加と責任のシステム」(8)だ。宇野氏はこのように述べる。

全体を貫くキーワードとなるのは「参加と責任のシステム」です。人々が自分たちの社会の問題解決に参加すること、それを通じて、政治権力の責任を厳しき問い直すことを、民主主義にとって不可欠の要素と考えるからです。「民主主義を選び直す」ことは、そのための第一歩なのです。(8)

この「参加と責任のシステム」という視座を明確にすることにより、「民主主義」という言葉の多様性に埋もれることなく、「民主主義を選び直す」ことが可能となる。例えば、ダールの民主主義観は、「参加と責任のシステム」という視座からすると、「人々の政治参加や責任追及という点」(204)に課題があるものとなる。
 本書の興味深いところは、民主主義について歴史的にアプローチしつつも、現代の問題を交えて議論しているところだ。例えば、古代ギリシアにおける民主主義について議論する中で、「現代に通じる重要なメッセージ」として次のように指摘する。

個人が経済的・社会的に隷属した状態では、どれだけ公共的議論による政治が存在しても不十分です。人々が実質的に議論に参加できる状態をつくり出す必要があるからです。人々の経済的・社会的解放なくして民主主義はありえないのです。(60)

 また、「民主主義とは何か」を議論していく中で、「政治」、「熟議」、「戦争」、「抽選」、「リーダーシップ」、「共和政」、「社会」「自由主義」、「代表」、「執行権」、「モッブ」といった民主主義と関連するテーマが多数取り上げられているのも本書の魅力の一つだ。例えば、アーレントが注目した「モッブ」について、現代的問題と関連させつつ、次のように解説している。

自分が所属する集団をどこにもみつけられない人々にとって、代議制は欺瞞以外の何ものでもありません。自分は代表されていない、自分の声はどこにも届いていないと感じる人々が大量に出現するとき、そのような人々は議会制民主主義を見捨て、むしろ自分たちを導く強力な指導者を求めるのです。あたかも今日のポピュリズムを思わせる現象が、二〇世紀の前半にすでにあったことを、アーレントの著作は示しています。(212)

 民主主義の未来を語る「結び」において、「最終的に問われるのは、私たちの信念ではないでしょうか」(264)と、「信じる」ことの重要性が指摘されている。ここで宇野氏が取り上げるのが「公開による透明性」、「参加を通じての当事者意識」、「判断に伴う責任」であるが、これらのことは、我々が直面している現代政治における民主主義の問題と直結するものであろう。民主主義の過去、現在、そして未来を考えるために最良の一冊と言えるだろう。

民主主義とは何か (講談社現代新書)

民主主義とは何か (講談社現代新書)

 

 

『表現者 クライテリオン11 特集:「大阪都構想」で日本は没落する』

 特集のタイトルにある、「大阪都構想」によって「日本は没落する」という論理が気になって、『表現者 クライテリオン11 特集:「大阪都構想」で日本は没落する』を読んでみた。以下、大阪都構想と日本没落とが関係ありそうな発言をメモ。

柴山桂太:大阪都構想が圧勝に終わったりすれば、日本はせっかくの転換のチャンスの芽を摘み取ってしまうことになる。世界全体で新自由主義グローバリズムへの反省が高まっている中で、日本だけがさらにそれを推し進めるという悲惨なことになりかねないんです。(24)

浜崎洋介:柴山さんがおっしゃるように、今回の大阪都構想が、日本の未来の「民主主義」を占う上で相当に重要だというのは、その通りだと思います。九〇年代あたりから持て囃されてきた「無党派層」と言われている人たちが、かろうじて「サムウェアーズ」的な矜持を持っているのか、結局「エニウェアーズ」的は軽薄さに流されるのか、それが問われることになるのでしょうね。(24)

浜崎:「大阪都構想」は、大衆のルサンチマンを糧にして権力ゲームを生きる「悪魔」が仕掛けた一つの花火だということです。その意味でも、今回の住民投票は、今後の日本を占う試金石になるでしょうね。(26)

浜崎:今回、大阪都構想に「NO」を言えば、「求めているのはその方向(コンサル型の改革、グローバル化新自由主義の改革)ではない」という意思が示される。

浜崎:過剰な未来主義、過剰な合理主義、過剰な啓蒙主義、加速主義でも何でもいいんだけれど、そこに飲み込まれつつあるのが現代の大衆人なんでしょう。自分の意識と無意識との関係をしっかりと見据えて、それを調整することができるのかどうか、それが今回問われているんでしょうね。(35)

藤井聡:政治主導で提案された都構想に行政が染め上げられつつある今の大阪の風景というのは、そういう「アフター・コロナの独裁政治」という近未来の日本の政治風景となっているわけです。だから、今この都構想の暴走が止められるかどうかが、日本の民主政治を守れるかどうかの「関ヶ原」になっていると言えるんだと思います。(51-2)

藤井:政治家と世論、さらにはそこに行政も含めて皆一体化して暴走し始める、という悪夢のポピュリズムというか全体主義が生じやすくなってるわけですね。で、その象徴が、いま大阪で起こってる都構想騒動だ、という話ですね。だとするとこの都構想現象は、大阪から日本全体に確実に飛び火しますね……。日本国家としても、相当ヤバイところに来てるわけですね……。(52)

藤井:この民主主義の時代には、政治家は常に「市民のために正しいことを言い続ける」か、それとも「自滅覚悟で長いものに巻かれるか」の二者択一、ジレンマに直面しているわけですね。そのジレンマを明確に自覚しながら、「正しいことを言い続ける」という政治家がこの世から消えて無くなれば、民主主義の世界は確実に地獄に落ちます。そして今まさに、そのジレンマを通して大阪は自滅に向かい始めているわけで、それが日本全体の未来予想図になっているわけです。それを止められるかどうかは、「にもかかわらず」と決意し、ただしいことを言い続ける政治家の命がけの決意以外に何もありません……。(54)

藤井:今回大阪の街が確実に衰退することが確定するわけですが、日本国家として、大阪という第二の都市、西日本の中心都市が没落するのをみすみす見過ごすのは、日本の没落そのものですから……。(68)

藤井:こんな理不尽なことが白昼堂々と認められてしまえば、もう日本ではどんな詐欺話、ウソ話であろうと、政治権力を握り、TVも掌握しつつ適当にデマを流布させ続ければいいんだ、ってことになって、日本の民主主義は激しく腐敗していくことになると思います。都構想は大阪を守る戦いなだけでなく、日本の民主主義を守る戦いでもあると思います。(69)

森裕之:このまま「大阪都構想」が実現すると何が起こるのか。「住民サービス水準は低下しない」と信じた特別区の住民は、財政削減を通じた福祉や教育の劣化に怒りを感じる。大阪の支配的政治家は自らの責任を棚に上げて、それを国や経済状況のせいにする。政治家の言説が正しいのかどうかなど誰も検証せず、それをただ鵜呑みにする。そこで発せられる攻撃的な言葉が住民の怒りをあおり立て、その矛先を国の政治へと振り向けさせる。コロナ禍での報道に見られるように、それがマッチョな「改革」政治家の偶像を作り上げ、彼らが次の国を担うリーダーであるかのような空気を育てる。その先に待っているのは、対立と攻撃によって人心を集める暴力的政治のまん延である。(90-1)

表現者クライテリオン 2020年11月号

表現者クライテリオン 2020年11月号

  • 発売日: 2020/10/16
  • メディア: 雑誌
 

 

ボヤン・マンチェフ『世界の他化-ラディカルな美学のために』

 著者であるボヤン・マンチェフは本書について、「ジョルジュ・バタイユについての本ではなく、バタイユを出発点とする本である」(9)と述べる。また、訳者である横田祐美子さんも「バタイユについてのテクストではなく、バタイユから出発して、バタイユとともに、ときにはバタイユに抗して思考を展開するマンチェフ自身の哲学についてのテクストだ」(301)と語る。一方、「ラディカルな美学のために」という本書の副題からは、美学や芸術学の著作であることを連想するであろう。
 このように、『世界の他化』はバタイユに関心がある方や美学に関心がある方がまずは手に取ると思うが、ぜひ政治思想・政治哲学に興味を持つ方も読んでほしい。なぜなら、本書は「政治的なもの」を巡る一冊でもあるからだ。「日本語版への序文」の中で、マンチェフは次のように語る。

『世界の他化』が強調してきたのは、世界の物質についての問い、その変形的な延長と強度の様態の問い…である。これは今日の鍵となる重要な問いだが、何よりもまず主体性の問いの継続と先鋭化として、したがって行為主と力との問いの継続と先鋭化として重要であり、同時にそれは決断や切断や変化という政治的な問いを先鋭化することでもある。(4-5)

他化というアイステーシス的なものが他者の問いへと必然的に開かれるかぎりでのラディカル倫理学。これは、バタイユレヴィナスの見解の対決をとおして、倫理的領野と政治的領野の関係の問いを提起する。(13)

また、マンチェフは「不定形や低い物質といった概念には、存在論的な価値だけでなく、政治的、さらには戦略的な価値もある。すなわち、権力装置を、権威の場を解体すること。物質は権力構造に先立つ抵抗の可能態、純粋な抵抗性であることが明確となるのだ」(112)とも指摘している。これらの議論は、「政治的なもの」に関心を持つ人たちを魅了するものであろう。
 「政治的なもの」について強調してきたが、本書は優れた哲学書である。訳者の横田さんが「よい哲学者とはつねに他の哲学者を論じながら、同時にみずからの哲学を提示する者なのかもしれない」(301)と言っているが、そのような意味からもマンチェフは「よい哲学者」であり、その魅力が本書には凝縮されている。そして、本書のキーワードである「他化」(“altération”)に対する訳注も、本書を哲学書として読む上で参考になる。『世界の他化』の読解を通じて、読者は哲学という実践を学ぶことができるだろう。

哲学の唯一の政治的価値はその完全な非有用性にある。しかしながら、この非有用性は現実化されねばならないのだ。もちろんそれは、世界を変形するためにではなく、変形を変形するために、である。
つまり、最後の哲学者とは、完成させる者ではなく、変形する者なのだ。(50)

「いまや変形の変形が私たちの哲学的、政治的使命となった」(15)というマンチェフの指摘は重要であり、本書をきっかけとして彼の哲学・思想への関心が高まることを期待する。

 

カンタン・メイヤスー「思弁的唯物論のラフスケッチ」(『亡霊のジレンマ』所収)

メイヤスーの語る唯物論についてメモ。

私にとって、唯物論はカギとなる次のような二つの言明を持っています。1.<存在>は、(主観性の広い意味で理解される)思考とは分離され、また思考から独立している。2.<思考>は<存在>を思考することができる。第一のテーゼは、主観的諸属性<存在>へと拡張することを求めるあらゆる人間中心主義と対立します。すなわち、唯物論アニミズムスピリチュアリズム、生気論等々の一形態ではないのです。それ〔唯物論〕は、非-思考が現実に思考に先立つこと、あるいは、少なくとも権利上は思考に先立つだろうこと、そして、非-思考が思考の外に存在することを断言します。また、エピクロスの原子の例に従えば、非-思考はいかなる主観性も欠き、私たちの世界との関係性から独立しているのです。第二のテーゼは、次のような点で唯物論が合理主義(理性にかんするさまざまな定義があるため、再び広い意味で定義される合理主義)であることを肯定します。すなわち、唯物論はいかなるときも、懐疑主義を通じて、宗教的アピールに、神秘に、あるいは私たち知識の限界に、知識と批判の活動を対抗させる企てであるという点です。(32-3)

訳者改題のなかの、「思弁的唯物論」と「新しい唯物論」との違いに関する説明もわかりやすい。

メイヤスーが説く「思弁的唯物論」においては、思考(主観)から独立した思考以前の存在が人間とは徹底的に関係なく存在するのに対して、「新しい唯物論」ではその発展過程において人間の身体をモノとして捉え直すことに力点があるゆえに、そこで想定される人間の思考以前という観点もまた意識以前ではあるものの人間の身体という次元を含んでいるという点である。つまり、「新しい唯物論」が人間身体からモノへと向かうことで(またそれによって人間の中心性を無効化し、そのように脱中心化された人間を含むさまざまな存在者の対等な関係性の豊かさが考え直されることで)議論を発展させたのに対して、メイヤスーは初めからいかなる人間ともまったく無関係に存在するものを想定しているということが(もちろん、メイヤスーの議論においてもモノとしての身体は超越論的主体の発生の条件として非常に重要な意味を持つのであるが)、このインタビュー全体を包む両者のやりとりの微妙なちぐはぐさの一因なのではないか。(39)

亡霊のジレンマ ―思弁的唯物論の展開―

亡霊のジレンマ ―思弁的唯物論の展開―

 

 

 

 

 

 

マルクス・ガブリエル×中島隆博『全体主義の克服』

 「新実在論」「新実存主義」を掲げるマルクス・ガブリエルと中国哲学を専門とする中島隆博。どのように対話が成立するのかと思っていたが、対話は共鳴しあい、読者を惹き付ける。中島氏がガブリエルに対して、そして哲学に対して誠実に向き合っているためでもある。しかし、何より二人には中国哲学への関心、そして「アクチュアルな問題に迫ろうという哲学的なパッション」(17)という共通項があり、それらが本書を盛り上げる。後者について、中島氏は「おわりに」でこのように述べる。

ガブリエルさんとわたしが、どのように全体主義を哲学的に問題化しているのかは本文を読んでいただければ詳細はわかると思うが、簡潔にポイントを述べておくと、一なる全体にすべてを包含しようとする諸概念(世界、存在、科学主義、資本主義等々)を批判し、より偶然や他者に開かれた地平を示そうというものである。これは現実を構成している諸力がなんであるかを解きほぐすことによって、新しい普遍的な倫理を構想することに向かおうということでもある。(248)

中島氏は、ガブリエルの「哲学的なパッションの核心にあるのは、全体主義への批判である」(18)と指摘しており、それは中島氏が批判する「全体主義的な「一」」(111)とも関連する。
 そして、もう一つ背景が中国哲学という共通項だ。ガブリエルは中国哲学の研究もしており、三世紀の魏の学者である王弼に関心を持っていたという話から、第五章の対話は始まる。そこから、王弼とシェリング否定神学との関係、自由意志の問題、普遍の問題といったことへと対話は進んでいく。普遍の問題に対しては、中島氏は次のように語っている。

もうひとつ、ガブリエルさんと盛り上がったのは、「普遍」に対する態度であった。過度な相対主義が普遍を退けることによって、かえって特殊でしかない現状を肯定するというパラドックスを前にして、もう一度いかにして「普遍」への問い方を可能にしていくのか。この問題をずっと議論していたのである。(246)

この普遍の問題は全体主義の問題へと通じ、「全体主義が想定した普遍は決して普遍的なものではなく、ある種の悪しき相対主義を許すことで、きわめて暴力的なものになりました。わたしたちは新しい普遍の概念に向かう必要があるのだと思います」(208)と中島氏は指摘する。そして、次のような議論が展開される。

中島:哲学は中立であるべきだというあなた(=ガブリエル)の考えは、複合としての世界哲学という概念に照らしても実に示唆的です。そして、わたしは、世界哲学を考える際に、「普遍」ではなく「普遍化する」というプロセスに注目しています。
ガブリエル:ええ、普遍性というものがあるとすれば、普遍化するさまざまな方法がなければいけません。普遍化することを複数化できるかもしれませんね。つまり、普遍化することは、複数のなかにありうる。それぞれみな出発点が異なり、異なる「動き」があるからです。(214)

 対話ゆえに議論は多岐にわたり、ガブリエルの放談も交えるため、焦点が定まりづらいところもあるが、「普遍」と「全体主義」という視点から読み解くことで、本書の内容を整理していくこともできるであろう。二人の「哲学的なパッション」に触発される、価値ある一冊だ。

全体主義の克服 (集英社新書)