yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

北田暁大+鈴木謙介+東浩紀「リベラリズムと動物化のあいだで」(東浩紀編著『波状言論S改』)

東浩紀氏は、自由の概念を「所有権にもとづいたリバタリアニズム的なものと、社会の異種混淆性や他者への開放性を重視するリベラリズム的なもの」(168)に分ける。前者が他者の迷惑にならない限りは何をやってもよいという自由で、後者が他者のことも考えて社会の福祉を前提にして構築する自由ということである。そして、情報技術の発展により広まりつつある「工学的な手法で拡張可能な自由」(171)とはリバタリアンの自由であり、そこにおいてはリベラルな理念は置き去りになっていると指摘している。

一方、北田暁大氏は、「降りる自由」という観点から、「「降りかた」を調整する思想」、言い換えると「非責任と無責任との境界線をネゴシエートするのがリベラリズム」(232)であるとしてこのように述べる。

リバタリアンは降りられない共同体については介入しないけど(もちろん個人の移動の自由は認めるわけですが)、リベラリズムは降りかたをちゃんと調整させる場を用意する。その意味ではとてもパターナルな(干渉主義的な)思想とも言えます。(232)

つまり、「あるていどの合理性(rationality)と道理性(reasonability)さえ担保できるのなら、リベラリストは倫理的な介入をためらわない」(238)ということである。北田氏が指摘しているように、リベラリズムは「不寛容なものに対して寛容であることができるか」という問いに向かい合ってきたのであるが、北田氏は「無前提に不寛容なコミュニティに対しては、やはりリベラリズムは黙っておくことはできない」(237-8)と主張する。

この「倫理的な介入」の許容範囲(=「ある程度の合理性と道理性」)を設定して実践することが、現代のリベラリズムに求められるだろう。その設定の「仕方」に現代のリベラルは失敗していると言えよう。

 

北田暁大「現代リベラリズムとは何か」(仲正昌樹・清家竜介・藤本一勇・北田暁大・毛利嘉孝『現代思想入門』)

北田暁大氏は、「リベラリズム」のアイデンティティについて、「「問い」のレベルでの共通性に同一性の「根拠」を見いだす」(163)井上達夫氏の議論に注目している。井上氏によると、「リベラリズムの自同性の根をなす問い」とは「善から区別された社会構成原理としての固有の意味における正義への問い」のことである(井上達夫『共生の作法』214)。

「善の諸構想の多元性を所与として承認せざるを得ない状況において、社会的結合はいかにして可能か」と問い、その可能根拠としての正義、即ち、相競合する善の諸構想を追求する人々がいずれも自己の構想を追求する自由を不当に抑圧されることなく社会的に結合することを可能にするような条件としての正義の存在を信じ、それを模索することがリベラリズムの企てであり、リベラリズムが自らに負わせた課題である。(井上達夫『共生の作法』214-5)

このような井上氏の議論を受けて、北田氏は「リベラリズムとは、善の構想の多元性を前提としたうえで「正義 justice」のあり方を模索するプロジェクト(問いの思考の試行)の総体である」(163)と説明している。そして、「リベラリズムの自同性の根をなす問い」に対する「解答」のパターンを提示している。

まず、「現在リベラリズムではないもの」という観点から、「個人指向/共同体(社会)指向」という軸と、「正義指向/善指向」という軸から、リベラリズムを「個人指向・正義指向」へ位置付ける。

次に、「現代リベラリズム」内の差異から「リベラル」を位置付けようと試みている。具体的には、個人的自由の多寡という軸と、経済的自由の多寡という軸をもとに、「基本的自由を尊重する一方で再配分的政策を支持するという点」から、リベラルは「個人的な自由・尊重/経済的自由軽視」に位置すると指摘している(168)。

もちろん、このような図式では、北田氏が指摘しているように、マイケル・ウォルツァーやジョセフ・ラズ、リチャード・ローティなどのような「リベラル」を適切に位置付けるのは難しく、「昇り終えたら外すべき梯子」(170)とみなしておいた方がよいのかもしれない。しかし、このような「どうせ外すべき梯子」という認識こそが、現在のリベラルの混乱を招いているのかもしれない。

 

北田暁大「知的緊張を追体験せよ-”理論武装”のためのブックガイド海外編」(『論座2005.7』)

北田暁大氏は、近代リベラリズムを特徴づけるものとして、「私的所有、自己決定、自律といった個人主義的な契機」と、「市場主義(自己調整機能への着目)」を取り上げている(79)。それは以下のように分類される*1

私的所有:ジョン・ロック『市民政府論』

自己決定:ジョン・スチュアート・ミル『自由論』

自律:イマヌエル・カント『道徳形而上学原論』『実践理性批判

そして、「20世紀以降のリベラリズムは、こうした古典の余白に書き加えられた注のようなもの」(79)で、新たな古典としてはアイザイア・バーリン『自由論』、カール・ポパー『開かれた社会とその敵』、フリードリッヒ・フォン・ハイエク『法と立法と自由』、ジョン・ロールズ『正義論』、ロバート・ノージックアナーキー・国家・ユートピア』を挙げている。その他、ジョン・ロールズやロナルド・ドゥオーキン、リチャード・ローティなどを取り上げ、以下のように総括している。

私的所有、自己決定、自律、自己調整的市場…リベラリズムとは、19世紀までに提出されていたこうした概念を、政治的・哲学的に活性化させるために言説を再生産してきた欲望と意思の総体である。リベラリズムを「自由主義」から救出するためにも、私たちはリベラリズム自体を読まなくてはならない。(80)

リベラリズムをこのような「欲望と意思の総体」として位置付ける点は興味深い。

*1:アイザイア・バーリンの分類に従えば、ミルは消極的自由、カントは積極的自由の代表格であると、北田氏は説明している。

浅羽通明「日本的「自由」の困難性について-”理論武装”のためのブックガイド国内編」(『論座2005.7』)

浅羽通明氏は、「個人の独立の伸長を何より尊重し、そのための手続き、手段として法の尊重と権力の必要を認める」(72)といったリベラルの基本を、福澤諭吉が『学問のすゝめ』において宣言していたことを指摘している。そして、福澤は経済的自立と精神的自立のために、「学問」、「実学」をすすめたのである。

しかし、日本ではこのようなリベラリズムが育たぬまま経済成長することができたため「リベラリズムは常に傍流」(73)であった。このような状況において、日本では伊藤博文のように国家権力の側にありつつ、リベラリズムの原理に立つエリートが育っていったとして、浅羽氏は次のように語る。

福澤諭吉が期待した経済的自立者も、欧米におけるキリスト教を背景とする精神的自立者も育ちにくかった日本。そんな中で、法律家、帝大エリート、外交エリートは、職業倫理として、法的ルール尊重や論理的思考、合理性といったものを血肉化する機会を得た例外的立場にあった。(74)

戦後においては、「私生活リベラル」が台頭したが、私生活を擁護するという姿勢が「欲望追及の自由」(76)を増長させ、現代に至っていると浅羽氏は指摘する。そして、冷戦終結後、リベラリズムを論じる学者に対して、「彼らのリベラリズムを受容する土壌が現在この国のどこに認められるのか」、「彼らがリベラリズムを標榜すせざるをえない必然はどこから来るのか」と疑問を呈し、このように指摘する。

経済的自立勢力もなく精神的自立の倫理も浸透しなかった日本で、リベラリズムとは、「西洋ルーツの学問」を職業上、もしくは教養上、真摯に学び、ゆえに「世間」共同体とのズレを生きねばならなくなった人々の思想だった。(77-8)

リベラリズムを「ズレを生きねばならなくなった人々の思想」と解する浅羽氏の視点は、現代においてリベラリズムを唱える上でも踏まえておいた方がよいだろう。

稲葉振一郎「「ネオリベ」批判を越えて」(『論座2005.7』)

稲葉振一郎氏は、「新自由主義新保守主義は、内政、社会経済政策における『小さな政府』論、市場原理主義と、外交におけるタカ派リアリズムとの混合物である」という「ケインズ主義の黄昏とネオリベラルの勝利のお話」(69)を批判的に捉えることから、リベラリズム復活の可能性を探ろうとする。

具体的には、「ケインズ主義的福祉国家」の没落は、歴史的・構造的に必然的なものではないことから、「ケインズ主義的福祉国家」と「ネオリベラリズムの台頭」との間には明確な対応関係がないことを説いている。つまり、「内政レベルでの「新自由主義」と、タカ派外交路線まで含めての「新保守主義」との間にも、予定調和的な対応はない」(70)ということである。

そして、当時における「ネオリベ」批判が、タカ派外交と自由市場主義をワンセットとして想定していたこと、また、「ケインズ主義的福祉国家は反市場、つまり市場に抗するものである」と捉えたこと、この「二重の錯誤」が、リベラルの障害となっていると指摘している(71)。

稲葉氏によるこのネオリベ批判を解体しようとする作業は、ネオリベ批判が繰り広げられている現代においても重要である。