yamachanのメモ

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哲学は無益だが統治する知

ハイデガーヘーゲルの経験概念」を読んでいて、「知」「学」「哲学」といったものについてあらためて考えるようになった。そんな時に、ふと『ハイデッガー全集第45巻 哲学の根本的問い-「論理学」精選「諸問題」』を手にした。

哲学の根本的問い 「論理学」精選「諸問題」 (ハイデッガー全集)

哲学の根本的問い 「論理学」精選「諸問題」 (ハイデッガー全集)

 

本書の第一章「哲学の本質への予示」のなかで、「哲学は役に立つか」ということについて、ハイデガーは次のように語っていた。

 そもそも哲学は、或る時は輝き或る時は伏蔵されている哲学固有の本質によってでない限り、他の何ものによっても測ることはできない。我々に直接有益か否か、またどんな益があるのか、といった目安から哲学を決算するならば、哲学は何の業績すら挙げてはいないことになる。

しかし、通常の臆見や「実用的」思考の特質には、哲学を評定する場合、過大評価という仕方であれ過小評価というやり方であれ、いつも評価し損なうということが必ず含まれているのである。直接利益をもたらすような効果が哲学の思索に期待されるや否や、哲学は過大評価されることになる。経験による事物との交渉によってすでに明らかに保証ずみのことが、単に「抽象的」に(引き離されて希薄に)なっただけで改めて哲学の概念の中に見出される場合には、哲学は過小評価されることになる。

しかしながら、真正な哲学的知は、いずれにしてもすでに周知の有るものについて、最も一般的な諸表象を後れ馳せに補足することでは決してない。むしろ哲学は逆に、絶えず新たに自らを伏蔵する事物の本質について、先立って跳躍しながら新しい問いの領域と問いの視点を空け開く知である。それ故にこそ、この知は決して有用にすることはできない。この知は、働くときにはいつも間接的にしか働かない。すなわち哲学的省察がすべての態度に新しい見通しを準備し、すべての決断に新しい尺度を準備することによるだけである。しかしこうしたことを哲学が為しうるのは、人間の現有に対してすべての省察の目標を思索によって設定し、それによって人間の歴史の内に或る伏蔵された統治を創設するという、哲学の最も業を敢行する場合だけである。従って我々は、哲学とは、事物の本質についての、直接には無益であるが、それにもかかわらず統治する知である、と言わなければならない。(7)

哲学が直接役に立つものとして期待されるときに、それを「過大評価」と評する点が興味深い。哲学に対する「過小評価」という話はよく聞くけど、「過大評価」という話はあまり聞いたことがなかったからだ。

また、「哲学が役に立つか」や「先立った跳躍」等の点について、『形而上学入門』でも同じようなことをハイデガーは指摘している。

形而上学入門 (平凡社ライブラリー)

形而上学入門 (平凡社ライブラリー)

 

あと、『哲学の根本的問い』で、「哲学は「世界観」とは全く別のものであり、またすべての「学問」とも根本的に異なる。哲学が自ら進んで世界観や学問の代りになることはありえない」(7)と語られている点については、『ハイデッガー全集第27巻 哲学入門』(未購入)も読んでみたいところ。

哲学入門〈第2部門〉講義(1919‐44) (ハイデッガー全集)

哲学入門〈第2部門〉講義(1919‐44) (ハイデッガー全集)

 

僕が起きている時間の2/3は「算定と功利と学びやすさに固執する思考」であるため、 僕自身にとっても「哲学は常に奇異なものに留まらざるを得ない」(『哲学の根本的問い』8)ものだから、哲学について勉強することは、自分自身の中にある「奇異なもの」を見たいという欲望のあらわれなのかもしれない。