yamachanのメモ

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宮﨑裕助+大河内泰樹+斎藤幸平「多元化する世界の狭間で-マルクス・ガブリエルの哲学を検証する」

 デリダ(宮﨑裕助)、ヘーゲル(大河内泰樹)、マルクス(斎藤幸平)の専門家が、マルクス・ガブリエルの哲学について議論した鼎談(『現代思想 2018.10月臨時増刊号』所収)。ガブリエルの著作を読むにあたっても参考になると思って再読したので、気になったところをメモ。

○デフレ化したヘーゲル

斎藤:(ガブリエルは)存在論なき、プラグマティズムヘーゲル解釈は、「デフレ化したヘーゲル」だという批判をしているわけです。
大河内:ガブリエルを読むと、ヘーゲルだけでなく、ドイツ観念論についての理解の深さが全然違います。ヘーゲルについての記述も…かなり精確だし、表面的ではないところできちんと捉えられている。(100)

 

○ガブリエルの哲学の語り方

宮﨑:ドイツ観念論を現代的な文脈に絡めつつ、いろいろな哲学的な動向や、ジジェクのように今世界的に起こっている政治的な動向や文化現象を絡めながら論じるというのは、非常に大変なことです。
大河内:私が面白いと思うのは、分析哲学やフランス現代思想など、こだわりなく哲学をフラットに語れるところです。…とにかく面白いと思うものを読んで、それを自分なりの料理の仕方をして論じている。(100-1)

 

○ガブリエルによる自然主義批判

大河内:自然主義といっても一つではないのですが、ガブリエルが批判するときには一般的に理解されている自然主義、つまり基本的に自然科学が実在について明らかにしているのだから、そこは哲学には手に負えず、自然科学に任せるしかない、基本的に自然科学がもたらした知識は正しいのだ、というスタンスとして理解されていますね。(102)

宮﨑:ガブリエルは-ここは重要だと思いますが-哲学の自然主義をはっきりと批判します。ガブリエルが突出しているのは、自然主義批判を一貫してやっている点だと思います。ガブリエルはむしろ、ヨーロッパ出自のポストモダンの哲学がゴチャゴチャした議論をやっている一方で、自然科学のイデオロギーと言うのでしょうか、テクノクラート化した学問がアメリカの巨大な資本に引っ張られてますます現代社会を座捲しているという状況のなかで、科学的世界認識を特権化する自然主義を批判しなければならないと主張するわけです。(106)

 

○ガブリエルによるポストモダン批判

宮﨑:ドゥルーズにせよフーコーにせよラカンにせよ、不可能なものに直面することで主体の主意主義的な解釈枠はその限界に突きあたるというところに、出来事の瞬間を位置づけ、主体をとりまく体制そのものの変革可能性を見込んできたはずなのです。
ガブリエルはポストモダン批判をしていますが、そういう意味では、ポストモダンと呼ばれてきた思想にはもともと実在論があったと私は思っています。(103)

宮﨑:とにかくはっきりさせておきたいのは、ガブリエルは藁人形のように敵をつくっているところがあり、本当はポストモダン批判になっていないということです。ガブリエルがポストモダンと読んでいるものの内実は、相当通俗化されたものでしかない。
大河内:いわゆるポストモダンも、構造的な外部が中心にあるのだというかたちで実在の話はしてきたと。
宮﨑:そういう契機はこれまでもいろいろなところに見出してきたのだから、そこをちゃんと評価して実在論を言わないと、本当に「新しい実在論」にはならないということです。(104)

斎藤:私は逆にポストモダン批判のところが面白いと思っています。とはいえ、どちらかというと民主主義や社会運動の観点からの関心です。
脱構築という手法自体が自己目的化していってしまっていて、結局何が示せるかよくわからなくなってしまった。そうした状況を一度リセットして、事実や普遍性に根づいた理論を再構築しようとする新実在論の試みは、排外主義的なポピュリズムが台頭するなかで有効な軸を打ち出せない左派にとっても、一考の価値があるのではないでしょうか。
開放的だったはずのポストモダンのプロジェクトが最終的に反動的なものになっていったわけです。なので、こういった状況を考えるなら、必ずしも藁人形であると私は思いません。
むしろ、もう一回実在論というかたちで事実の客観性を打ち立てようというモチーフは、アクチュアリティがあるなと思いました。(105)

 

相対主義について

斎藤:意味の場が無限に存在するという話は、あくまでも存在の無限性で、相対主義のように真理も無限にあるという話では決してないわけです。
宮﨑:実在論と言うのであれば、新しいそれであるにせよ何にせよ、相対主義ではなく、何らかの実在性に依拠するというか、それに即した議論が展開されなければならない。
まず相対主義ではないことは強調してよいと思うのですが、問題は次のレヴェルです。私はガブリエルの議論がそれでも相対主義のように感じるところがあります。…どういう「意味の場」同士の関係性があるのかがあまり問われず、いろいろなあり方に応じて複数の意味の場を想定し、いろいろなあり方に応じて複数の意味の場を想定し、それぞれの意味の場に対応する実在の各々がみな並立しうる、というのはやはり相対主義的に聞こえます。
斎藤:ガブリエルは普遍性とか学問の客観性をものすごく重視するわけです。学問的に裏づけられたものは客観的な事実として妥当しているのだから、尊重しなければいけないのだということは、すごくシンプルに言います。
そういう意味で、相対主義が真理の領域において妥当するなんて、本人はさらさら思っていないわけです。(108)

大河内:先ほど宮﨑さんは「意味の場に対応する実在がある」という言い方をされていましたが、たぶんそうではなくて、彼の言っているのは意味が実在だということだと思います。
意味が実在するとして、しかし意味と言う限り、「われわれ」にとっての意味であって、そういうかたちで意味の場がある意味の場に包摂されることも起こりうるというのはわかるのですが、そのときの「われわれ」とは何なのかという問題が残ります。私の立場から言えば、そのときには社会を想定しないといけないと思うのです。でもガブリエルはそこも曖昧だと思います。
宮﨑:意味の場はいろいろ成立するのだけれど、その意味の場を引き受けるのか、ある意味の場が支配的な社会とそうでない社会がある。あるいは意味の場に応じて共同体が分かれてします。すると、やっぱり最初の構図に戻ってしまう。人間とは関係なく実在しているところで意味の場を考えるという、実在論の最も肝心なところを裏切ってしまうことになる。ここは結構深刻な問題だと思います。(109)

 

○ガブリエルの楽観主義

斎藤:実在するのが無限にある、意味の場が無限に開かれてあって、その無限の意味のなかで思考していくことこそが人間の人間らしさであって、これこそが「精神」の営みなのだ、と。「絶望的な笑い」ではなく、そのような無限性を受け入れる「解放的な笑い」に到達しようという話ですね。(112)
今の民主主義社会では、インターネットなどによって情報が爆発的に増大しています。だけれど、そうやって情報が増えたからといって、みんなそこからいろいろ考えたりするかというと、そんなことはない。どちらかといえば圧倒的な情報を前にインプットをシャットダウンしてしまって特定の意味の場に閉じこもりがちです。その結果として人々が分断され、さらにはこうした情報量を減らしてしまいたいという欲求があるなかで、ガブリエルが言うような解放的に笑える主体、無数の意味の場という負荷に耐えられる主体は本当に可能なのかどうか。来日時には、教育によってできるようになるのだという話をしていましたが。
宮﨑:存在論の多元化を進めると、実際にはタコツボ化・島宇宙化してしまう問題のほうが今は大きくないでしょうか。それでディスコミュニケーションになってしまって、一方で自然主義イデオロギー的な世界観が資本の力によってどんどん拡大していく。そこで主体を強くしましょう、教育で多元的な世界にもっと目をひらいて豊かに生きましょうというメッセージはかなり弱いと思います。正しいのですけれど。(113)

 

○ラディカル・デモクラシー

斎藤:ラディカル・デモクラシーとは、民主主義は民主主義に反対することができないという意味だというのです。
宮﨑:それは普通は逆で、留保つきのデモクラシーですよね。民主的決定に制限をかけようという話なのですから。
斎藤:そうなんです。制限という意味では立憲主義的な話に親和的なので、対談でも國分さんと盛り上がっていましたね。つまり、民主主義だとこういう問題しか扱えないという枠がまずあって、そこに入らない意味の場は最初から排除されているわけです。
宮﨑:よくある批判は、そういう制限された民主主義の場に上がってこられない人たちがいるのをどうするのかというものです。それを設定した段階で排除と包摂が起きていて、まさに民主主義が問われなければならないはずの、そういう留保つきの民主主義の場に上がってこられない人民の問題をむしろ抑圧してしまう、と。
そういう意味では、私はガブリエルの言動はちょっとテクノクラートっぽいなと思ったのです。本当に良識的なドイツの知識人というか。(114)