yamachanのメモ

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広瀬義徳+桜井啓太編『自立へ追い立てられる社会』

 次期首相候補の一人、菅官房長官が「自助・共助・公助」を唱える今、「公助が酷薄な現代世界を生きるには、何より未完のプロジェクトとしての「強い個人」の育成強化とその自助を前提とした共助しか残されていないとする立場とも異なる」(9)理念を持つ本書は、必読に値する一冊だ。では、本書の立場はどのようなものか。序文において次のように示されている。

わたしたちが求めるのは、この「自立支配」社会の舞台の上で自己を自律的な意志のあるパフォーマティブな主体として常に努力しつる活性化させる強迫的な日常からの自由である。(10)

この「自由」を探求するために、本書は教育・福祉・労働・メディアなどの様々な領域について、それらの歴史や現状、背景にある思想・理論を分析している。
 そして、この領域横断性において特に注目すべきなのが、第3章の桜井智恵子「反自立という相互依存プロジェクト」である。本論考は、「自立」の意義、市民社会の歴史、ポストモダン思想や承認論の問題、そして環境危機などに触れつつ、資本制社会に対して批判的まなざしを向ける。「自立」というテーマが、「私たちがみんなが居る場所にある」(66)ことを実感できる内容だ。
 かつて、介護保険を担当する部署で働いたことがあり、そのために福祉や保険を勉強してきた私にとって、第1章と第4章も大変興味深いものであった。

「ケア」の変革力とは…人が不可避的に負う他者依存性と応答可能性一般に由来し、家事や介護など特定の分野に限定されるものではない。すべての人が依存的であるのだから、誰を「依存した人々」とするか、誰が支援対象として重視されるべきかといった問題設定それ自体を超え出るものである。(28-9)

バッシングして福祉切り下げを支持する人びとと、バッシングせずに福祉受給(利用)者への自立支援を支持する人びと間には、共通の価値規範が隠れている。(71-2)

昨今の社会福祉の地域共生社会における「支え合い」という言葉は、全く不十分であり、むしろ危険である。「支え合い」は、ともすれば「支配し合い」に転化する。「誰もが支え手にまわれる」とか、「参加を通じて貢献できる」という、結局は人を有用性で評価している分断の言葉ではなく、人はすべてどうしようもなく依存しているという基本認識から始めなければならない。(80)

これらのことは、働きながら人びとと接するなかで私も感じてきたことであるが、それを言葉にすること自体リスクがあり、非常に根深いものだと思っていた。だから、これら重要な事実を明らかにしている点でも本書には価値がある。
 また、『高等学校学習指導要領解説 家庭編』を分析し、「社会的なこと」に言及している第8章も興味深い。

社会の影響を大きく受ける生活問題という認識を踏まえてもなお、その解決に家庭や地域の中で個人が主体的にあたることを要請している。社会の責任をあいまいにしてその解決コストを生活主体に負わせるのだ。社会的に解決する問題をより巧妙に自己責任の原則で覆い隠している。(138)

個人によるリスク管理のみを要請することは「社会的なことは個人的なこと」だとすることに他ならない。(139)

広い視野を持って生活を創造するなかには社会や国家の責任を問うことは含まれていない。不測の事態に柔軟に対応するには家庭や地域社会で止まっているのはふさわしくない。「社会的なことは社会的なこと」なのだ。(140)

介護保険法が導入されたのは「介護の社会化」を目指したものだったが、二〇年以上経った今でも家庭がまず第一に挙げられている。(144)

「社会的なこと」「社会的なもの」は引き続き重要なテーマであり、具体的な資料を用いてそれらを読み解く本章は、現代社会を批判的な視座から見るにあたっての格好のお手本になるだろう。
 自助・共助・公助という理念に対する批判的な意見を聞くが、その多くは国家批判である。しかし、問題は国家にだけあるのではない。第13章の結論で語られている次の言葉は、私たちに突き刺さる。

過ちを犯してきたのは国家だけではない。それは、教育効率を優先し、能力の高い者が優位に立つしくみに疑問を持たず、目の前の子どもたちが障害を理由に別の場に連れ出される不正義を糾弾してこなかった私たち自身の過ちなのである。(229)

国家だけではなく、私たち自身の問題としても受け止め、それぞれの日常における「自立支配」について考え、これからの「人間」そして「自由」を想像/創造すること、これが社会変革へとつながっていく。本書はその社会変革のための第一歩になるだろう。