yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

カンタン・メイヤスー「思弁的唯物論のラフスケッチ」(『亡霊のジレンマ』所収)

メイヤスーの語る唯物論についてメモ。

私にとって、唯物論はカギとなる次のような二つの言明を持っています。1.<存在>は、(主観性の広い意味で理解される)思考とは分離され、また思考から独立している。2.<思考>は<存在>を思考することができる。第一のテーゼは、主観的諸属性<存在>へと拡張することを求めるあらゆる人間中心主義と対立します。すなわち、唯物論アニミズムスピリチュアリズム、生気論等々の一形態ではないのです。それ〔唯物論〕は、非-思考が現実に思考に先立つこと、あるいは、少なくとも権利上は思考に先立つだろうこと、そして、非-思考が思考の外に存在することを断言します。また、エピクロスの原子の例に従えば、非-思考はいかなる主観性も欠き、私たちの世界との関係性から独立しているのです。第二のテーゼは、次のような点で唯物論が合理主義(理性にかんするさまざまな定義があるため、再び広い意味で定義される合理主義)であることを肯定します。すなわち、唯物論はいかなるときも、懐疑主義を通じて、宗教的アピールに、神秘に、あるいは私たち知識の限界に、知識と批判の活動を対抗させる企てであるという点です。(32-3)

訳者改題のなかの、「思弁的唯物論」と「新しい唯物論」との違いに関する説明もわかりやすい。

メイヤスーが説く「思弁的唯物論」においては、思考(主観)から独立した思考以前の存在が人間とは徹底的に関係なく存在するのに対して、「新しい唯物論」ではその発展過程において人間の身体をモノとして捉え直すことに力点があるゆえに、そこで想定される人間の思考以前という観点もまた意識以前ではあるものの人間の身体という次元を含んでいるという点である。つまり、「新しい唯物論」が人間身体からモノへと向かうことで(またそれによって人間の中心性を無効化し、そのように脱中心化された人間を含むさまざまな存在者の対等な関係性の豊かさが考え直されることで)議論を発展させたのに対して、メイヤスーは初めからいかなる人間ともまったく無関係に存在するものを想定しているということが(もちろん、メイヤスーの議論においてもモノとしての身体は超越論的主体の発生の条件として非常に重要な意味を持つのであるが)、このインタビュー全体を包む両者のやりとりの微妙なちぐはぐさの一因なのではないか。(39)

亡霊のジレンマ ―思弁的唯物論の展開―

亡霊のジレンマ ―思弁的唯物論の展開―