yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

カント『永遠平和のために』読書会メモ

 ソーシャルディア主催の読書会に参加。以下、議論になったことも含め、今後の勉強用にメモ。

・カントの軍事思想について

A=兵役は職業軍人が中心的に担うが(常備軍制)、国民全体の義務でもある(徴兵制)。
B=兵役は職業軍人が担うものであり(常備軍制)、国民全体の義務ではない(志願兵制)。
C=兵役は一般的市民が担うもので(民兵制)、それは国民全体の義務である(徴兵制)。
D=兵役は一般的市民が担うが(民兵制)、必ずしも国民全体の義務ではない(志願兵制)。
A=ヘーゲル

B=ホッブズ、スミス、ショーペンハウアー 
C=マキアヴェリ、ルソー、フィヒテ

D=カント

(伊藤貴雄『ショーペンハウアー 兵役拒否の哲学-戦争・法・国家』279-80)

 

・民主制について

民主制は語の本来の意味で必然的に専制的な政体である。というのは民主制の執行権のものとでは、すべての人がある一人について、場合によってはその一人の同意なしで、すなわち全員の一致という名目のもとで決議することができるのであり、これは普遍的な意志そのものと矛盾し、自由と矛盾するからである。
だから代議的でないすべての統治形式は、ほんらいまともでない形式である。というのは立法者が同じ人格において、同時にその意志の執行者となりうるからである。(カント『永遠平和のために』171)

民主的な体制では、すべての人がみずからの意志の主人であろうとするために、このようなこと(代議的なシステムの精神にかなった統治方式に近づくこと)は不可能なのである。(172)

唯一法的に完全な体制に到達する可能性がもっとも高いのは君主制であり、貴族制では実現が困難になり、民主制では、暴力による革命なしでは、実現不可能なのである。(同)

 

・カントの民主制とルソーの一般意志について

カントによれば、人民の意志によって制定された法律を個別的な問題に適用し執行するという役割の分担と代表の関係は、支配形態としての「民主政」においては、全員が立法者であると同時に全員が執行者となる(立法者と執行者の人格が同一となり専制に陥る)ために困難である。支配形態としての「民主政」においては、立法権ではなく執行権の名の下で、「全員が一人の人間を無視して、また場合によってはその人に反してまで(つまりその人が賛同していないのに)決議できる(vgl.ZeF, 8:352)。これは、執行権者としての人民が、個別的な事柄にかんする判断を一般的な判断として、すなわち立法権者の判断として下してしまう事態を言い表している。このときルソーのいう「一般意志」は個別的な対象に関係することでもはや失われてしまっているのである。それゆえ、このような事態は「普遍的意志の自己矛盾に対する矛盾」(ZeF, 8:352)である。支配形態としての民主政体は(ルソーの場合よりもさらに一歩踏み込んで)「言葉の本来の意味において必然的に専制である」(ZeF, 8:352)とも言われる。(斎藤拓也『カントにおける倫理と政治』227)

 

・法と博愛について

人間愛と人間の法にたいする尊敬は、どちらも義務として求められるものである。しかし人間愛は条件つきの義務にすぎないが、法にたいする尊敬は無条件的な義務であり、端的に命令する義務である。法にたいする尊敬の義務を決して踏みにじらないことを心から確信している人だけが、人間愛の営みにおいて慈善の甘美な感情に身をゆだねることが許されるのである。(カント『永遠平和のために』251)

互いに実際に関係をもちうる地上の諸人民すべてを包括し、まだなお友好的ではないにしても平和的である共同体という理性の理念は、博愛的(倫理的)ではなく法的な一原理である。(カント『カント全集11 人倫の形而上学』204)

 

・場所について(オンライン空間との比較)

この地表には、海洋と砂漠という居住できない場所があり、人類という共同体を分離しているが、船舶と駱駝(砂漠の船舶)という手段によって、この無人の領域を超えて、たがいに近づくことができるものであり、人類が共同に所有する地表の権利のもとで、交通のために地表を利用することができるのである。…外国から訪れた者に認められるこの歓待の権利は、昔からの住民との交通を試みる可能性の条件を提供するものにすぎない。この権利が認められることで、世界の遠く離れた大陸がたがいに平和な関係を結び、やがてはこの関係が公的で法的なものとなり、人類がいずれはますます世界市民的な体制に近くなることが期待できるのである(カント『永遠平和のために』186)。

すべての人間は根源的に(つまり選択意志の一切の法的行為に先立って)土地を適法に占有している。つまり人間は、自然ないし偶然が(人間の意志によらずに)置いたところにいる権利をもっている。選択意志による占有、したがって取得された持続的な占有である占拠(sedes)とは区別されるこの占有(possessio)は、球体の表面である地表のすべての場所は一体をなしているがゆえに、共同の占有である。なぜならば、もしも地表が無限の平面であったならば、人間はそこに散らばることができたので、互いの共同体をつくることもまったくなく、したがって共同体が人間が地上に生きることの必然的帰結であることもなかっただろうからである。-人間による一切の法的行為に先行する(自然そのものによって構成されている)地上のすべての人間による占有は、根源的総体占有(communio possessionis originaria)である。…これは一つの理性概念であり、そこにアプリオリに含まれる原理に従ってのみ、人間は地上の場所を法の諸法則のもとで使用することができるのである。((カント『カント全集11 人倫の形而上学』90)

諸人民はすべて、根源的に一つの土地共同体[共有]に属している。とはいえそれは、土地を占有する、したがって使用あるいは所有する法的共同体(communio)ではなく、物理的な可能な相互作用(commercium)、つまり互いに交流し合う一人民と他のすべての人民との包括的関係である。そして諸人民すべてが交流を試みる権利をもち、交流を試みる者をそれだけで敵として遇する権能は外国人に認められていない。-諸人民すべての可能な統合体は、自分たちの可能な交流に関する一定の不変的な法則を意図しているが、そのかぎりでこの法は、世界市民法(ius cosmopoliticum)と呼ぶことができる。(カント『カント全集11 人倫の形而上学』204)

 

・理論と実践について

こうした国家(国際国家)は、彼らなりに国際法の理念に基づいて、このことを決して望まず、それを一般的には(イン・テシ)正しいと認めながらも、個々の場合には(イン・ヒュポテシ)否認するのである。だからすべてのものが失われてしまわないためには、一つの世界共和国という積極的な理念の代用として、消極的な理念が必要となるのである(カント『永遠平和のために』186)。

理論ではいかにも尤もらしく聞こえることでも、実践にはまったく当てはまらないなどと主張するにいたっては、とうてい我慢できるものでない。(このような主張はまた次のようにも言われている、-これこれの命題は、なるほど一般的命題としては<in thesi>当てはまるが、しかし個々の場合には<in hypothesi>通用しない、と)。(カント『理論と実践』114)

啓蒙はたしかに「一般論としてはin Thesi」たやすいとはいえ、「具体的な場合にはin Hypothesi」困難で、ゆっくり成しとげられるほかないことがらである。(カント『判断力批判』258)

「仮定においてin hypothesi」が、「空間時間的に条件づけられた」、或いは同じことだが、悟性へと還元不可能な固有の認識能力としての感性の前提の下で「個別的・特殊的・具体的な」、といった意味であること、対するに「定立においてin thesi」のほうは、「それ自体として」とか「一般的・普遍的な」とかいった意味であることを見て取るのは、何ら困難ではない。(山根雄一郎『カント哲学の射程-啓蒙・平和・共生』178)

リアルに可能ではない(仮定において可能ではない)、つまり感能の対象との対応が完全には保証されない、という右の含意から、世界共和国は実現不可能と判定されたのだとすれば、「カントによる世界共和国の拒否はなんら原理的なものではない」といったカント批判はあたらないことになろう。かの判定は、むしろ彼固有の批判的思考に根差す、優れて形状額的な洞察を伝えるものであり得るだろうからである。(132)

ショーペンハウアー兵役拒否の哲学―戦争・法・国家―
 
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判断力批判

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カント哲学の射程―啓蒙・平和・共生

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