yamachanのメモ

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川瀬和也『全体論と一元論-ヘーゲル哲学体系の核心』

 「全体論と一元論」というテーマはもちろん、「ヘーゲル哲学体系の核心」という副題にも関心を持つ読者は少なくないだろう。決して分厚いわけではないこの研究書で、どのようにして「ヘーゲル哲学体系の核心」へ迫るのか。著者の川瀬和也さんは、ヘーゲル『大論理学』の「概念論」を中心として、「時にはヘーゲルの文章に大胆な解釈を加えながら、彼の思想の再構成」(9)を試み、ヘーゲル哲学の全体論的な性格と一元論的な存在論への志向性を見事に描き出している。
 ヘーゲルの体系が全体論的であるとはどのような意味か。川瀬さんは、「ポスト・カント的解釈」と「形而上学的解釈」の両方を克服しうる解釈を次のように見出している。

ヘーゲルの論理学を認識論としてのみ理解するポスト・カント的解釈と、形而上学としてのみ理解する形而上学的解釈はいずれもヘーゲル解釈として不十分であり、むしろヘーゲルの思想の中には、この対立を克服する洞察が見出されるのである。その洞察とは、認識論と形而上学のいずれかよって他方を基礎づけるのではなく、両者を相互に補い合うものとして捉え、両者の調和を目指すべきだ、という洞察である。(113)

このような「反基礎付け主義的な全体論」(6)において重要なことは、全体論的構造の中に「個物」「個別的なもの」も含まれており、全体論的構造は「経験を通じて変動しうる」(79)ということである。
 もう一つの特徴である一元論について、「生命」章の議論から、ヘーゲル哲学は「主観と客観の統一と、それを可能にする一元論の構築という目標によって貫かれている」(243)と、川瀬さんは指摘する。この一元論においても、全体論と同様、「生きものの個体」「生物個体」といった「個」は無視されていない。また、「主観と客観の統一」の多義性に関しては次のように述べている。

「主観と客観の統一」は入れ子になり、二重の意味を持っている。すなわち、入れ子の内側では、主観と客観の統一とは、一元論的な形而上学のことである。他方外側では、主観と客観の統一は、そうした存在論そのものを「客観」と見なし、これと認識論とが統一された全体論的な考え方を意味している。(246)

「言葉を多義的に用いるレトリックは、ヘーゲルが好んで用いたもの」であり、この「主観と客観の統一」も多義的に用いられているため、「私の解釈の妥当性を削ぐものではない」(246)ということだ。さらに言えば、ヘーゲルの哲学の性質に即して忠実な読解を行った結果、導き出された洞察であると言えるだろう。
 本書において特に興味深い点は、ヘーゲルの文章「一文一文をどう理解すべきか、詳細に自らの言葉で語り直して説明する」(8)という徹底した読解から、現代形而上学、現代の心の哲学や行為の哲学といった現代哲学との関連をヘーゲル哲学に見出していることである。そのため、本書の射程はヘーゲル哲学に留まらず、現代哲学にまで及んでいる。「本書がヘーゲル哲学が敬して遠ざけられがちな現状を変えるための一助となることを」(251)、著者とともに願いたい。