yamachanのメモ

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『ジャック・デリダ講義録 ハイデガー 存在の問いと歴史』(22ページ1段落目まで)

存在と時間』の第六節は、存在論の歴史の<解体>(Destruktion)を最重要の課題として定めています。ここで解体とは…存在論の解体です。すなわち、その歴史全体を通じて思考され、実践されてきた、そうした存在論の解体なのです。(21)

「解体」について、ハイデガー・フォーラム編『ハイデガー辞典』の「破壊・解体」を確認。

哲学史における伝統的存在概念をその由来へ遡り、現代に蔓延する非本来的な存在理解を撤回して本来的な存在理解を露呈する、歴史的に批判的な解釈作業を指す。…『存在と時間』第6節「存在論の歴史の解体の課題」では、存在の問いが問われぬまま隠蔽されてきた原因が古代以来の存在理解にあることが指摘されるとともに、その由来へと批判的に遡行することで本来的な存在理解を獲得するという目標が掲げられている。(ハイデガー・フォーラム編『ハイデガー辞典』413)

 続いて、デリダは解体を語るうえで、次のように指摘する。

私たちはもう少し後のほうで、存在についての誤謬〔erreur〕や、存在の忘却として表面的には解釈されるものが、<存在>の思考と存在の歴史の必然的な運動である根本的な彷徨〔errance〕のうちにその基盤を持っていることを見るつもりです。(22)

訳注にて、「本書ではこれ以上詳論されないが、「誤謬(erreur)」と「彷徨(errance)」はハイデガーの「誤謬(Irrtum)」「迷い(Irre)」の仏訳にあたる」として、「真性本質について」『道標(ハイデッガー全集第9巻)』の239ページ以下を参照とされている(ⅶ)。

人間は迷う。人間は更めて迷の内へ入って行くのではない。人間は脱-存的に執-存し、かくして既に迷の内に立っているが故に、人間は常に迷の内に歩み行くのである。…迷は、歴史的人間がその内に引き入れられている現-有、そういう現-有の内的体制に属している。迷は次のような転換の活動空間である。すなわちその転換とは、その内で執-存的脱-存が転々として絶えず新たに自分を忘却し測り損う転換である。全体として覆蔵されて有るものを覆蔵することは、その都度の有るものを露現することの内にあってそのことを統べており、その露現することは、覆蔵することが忘却されることとしては、迷になる。

迷は、真性の元初的本質に対する本質的な反本質である。迷はそれ自身を、本質的な真性に対する如何なる対向活動のための開けた場所として、開く。迷は迷妄の開けた場所であり根拠である。個々の誤謬が迷妄ではなくして、迷うことのすべての仕方がそれ自身の内で織り合された彼の絡み合いの歴史を支配する王権(支配権)が、迷妄である。

…ひとが通常にそしてまた哲学の諸学説に従って誤謬として知っていることは、つまり判断の不正当性と認識の虚偽性とは、迷うことの一つの仕方に過ぎないのであり、而もその際、迷うことの最も表面的な仕方に過ぎないのである。歴史的な人間形態が、その歩み行きが迷った行き方になるためには、その都度その内で歩み行かねばならない迷は、現有の開性を本質的に<その他のことと>共に接合している。迷は、それが人間を惑わすという仕方で、人間を徹底的に支配している。併し、惑わすこととして迷は、それと同時に次の可能性に<その他のことと>共にかかわっている。すなわちその可能性とは、人間が脱-存にもとづいて取り上げ得る可能性であり、つまり、人間が迷を経験しそして現-有の密令を見損なわないことに於て、惑わされないようにするという可能性である。(ハイデガー「真性本質について」『道標(ハイデッガー全集第9巻)』240-1)

有るものを有るものとして露現することは、それ自身に於て、同時に、全体としての有るものを覆蔵することである。露現することと覆蔵することとの同時ということの内に、迷が統べている。覆蔵されたものを覆蔵することと迷とは、真性の元初的本質の内へ属している。…有るものを有るものと全体として有らしめることは、そのことが時としてそのことの元初的本質に於て引受けられる場合に初めて、そのことの本質に適った仕方で生起する。その場合には、密令に向って覚悟を決めて-開かれていることは、迷としての迷の内へ入って行く途中にある。その場合には、真性の本質への問は一層根源的に問われる。(「真性本質について」『道標(ハイデッガー全集第9巻)』241)

また、同訳注によると、デリダ「暴力と形而上学」(『エクリチュールと差異』285)で彷徨が言及されているとのこと。

存在者の下へ存在の起源的隠蔽、それは判断の誤謬に先立つもので、存在的順序では何ものもそれに先立たないのだが、ハイデガーはかかる隠蔽を、周知のように、彷徨(errance)と呼んでいる。「世界史のどの時代(エポック)〔画期、滞留〕もひとつの彷徨の時代である」(『杣道』)。存在が時間であり歴史であるのは、存在の彷徨ならびにその時代的本質とが還元不能なものだからだ。(ジャック・デリダ「暴力と形而上学」『エクリチュールと差異』285)

ここでがデリダが引用しているのは、『杣道』所収の「アナクシマンドロス箴言」の以下の箇所と思われる。

有るということの本質の真相がこのように明け透かせながら自省することを、我々は有ることの<エポケー〔停止・停留・停留期〕>と呼ぶことが出来る。ストア学派の用語法から借用したこのエポケー〔停留〔期〕〕という語は、しかしここでは、フッセルの場合のように、対象化に当って定立的な意識の諸作用を中止することという方法的なものを名指してはいない。有ることの停留〔Epoche〕は、有ることそれ自身に属している。それは、有ることが忘却されていることの経験から考えられている。

有ることの停留から、有ることの命運の停留期的〔epochal〕な本質が由来する。本来的な世界歴史はこの本質に宿っている。有るということがその命運において自生する度ごとに、急激に思い懸けなく世界が出来する。世界歴史の各時期は迷いの一停留期である。(ハイデガーアナクシマンドロス箴言」『杣道(ハイデッガー全集第5巻)』376)

また、ハイデガーの「迷い」について、『ハイデガー辞典』を確認。

『真理の本質について』(1943)等では、真理とは「開蔵」だが、非真理は「覆蔵」と「立て塞ぎ」という働きであり、真理は立て塞ぎによって偽装され、仮象となり、人間はこれに惑わされる。これが「迷い」であり、「人間はつねに迷いのうちで歩む」(GA9.196)。覆蔵の働きは「存在の自己覆蔵」として人間には容易に見通されがたい「秘密」だとされ、人間は迷いのうちでこのような秘密を忘却する。…だが「秘密へと覚悟して-開けていることは、迷いそのもの(真の迷い)への途上にある。そのときこそ、真理の本質への問いが、より根源的にとわれる」(GA9.198)。われわれが「真に迷う」ことができたとき、そのときこそ初めて、真理は見えてきうる。(『ハイデガー辞典』436)

さらに、ハイデガーの「迷い」については、秋富克哉・安部浩・古荘真敬・森一郎編『ハイデガー読本』所収、相楽勉「真理概念の変容」も参照。

なぜハイデガーは「迷い」について、また「秘密」の支配について語るのか。それはわれわれが「真理の本質を問う」のがどういう事態かを指し示すためであろう。ハイデガーによれば、「迷いは歴史的人間がそのうちに引き込まれている現-存在(Da-sein)の内的体制に属している」(GA9.196)。すなわち、われわれは確かに「迷う」から「問う」のである。「迷う」限りにおいて、自分の立てた「尺度」の設定自体を問い返すことになる。そして、「真理の本質」にまで「問い」を進めることは、「迷いの圧迫」と「秘密の支配」が極点に達した「窮迫(Not)」から生じる。ハイデガーは言う、「現存在は窮迫への向き直り(Wendung)(GA9.198)であり、そこで「問いの必然性(Not-wendigkeit)が隠れから引き出される」(ebd.)と。(204)
結局のところ、この論文で示唆されたのは、「存在者に開かれている」態度決定の「自由」が「迷いの内なる秘密の支配に由来する」(ebd.)ということである。「隠れなさ」への参入は、「隠れなさ」が含み持っている「隠れ」との間で「迷う」ことの自覚であり引き受けでもある。このことに気づきつつ態度を決することが、ハイデガーにとっての「哲学」なのである。(相楽勉「真理概念の変容」『ハイデガー読本』204-5)