yamachanのメモ

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『ジャック・デリダ講義録 ハイデガー 存在の問いと歴史』(22ページ2段落から24ページ1段落目まで)

ここからは、ヘーゲル哲学史講義』への言及が続く。

哲学史講義』によれば、「哲学は、その起源を哲学史から取り出すのであり、その逆もまた然りである。哲学と哲学史は、互いが互いの鏡像である。哲学史を研究することが、哲学そのものを研究することであり、とりわけその論理学を研究することである」。(22)

哲学史の研究が哲学そのものの研究であり、そうあるほかはないことだけはあきらかです。(ヘーゲル哲学史講義Ⅰ』63)

発展の進行が概念内容を明確にし、理念の内実を深め、理念をとらえかえすことである以上、最終・最新の哲学はもっとも発展した、もっともゆたかな、もっとも深い哲学だということになる。一見過去のものと見える一切がそのなかに保存されふくまれていなければならず、それはみずから哲学史全体を映す鏡でなければなりません。(ヘーゲル哲学史講義Ⅰ』77)

論理学の体系においてそれぞれの思考形態がまさにその形態にふさわしい位置をあたえられ、そこを過ぎると他の形態に従属する一要素になってしまうように、それぞれの哲学も、全体の流れのなかで、それぞれ特殊な発展段階に対応し、その特定の位置にあるとき本来の価値と意義を発揮します。(ヘーゲル哲学史講義Ⅰ』81)

 

 なお、論理学と哲学史との関係について、三重野清顕氏は、次のように指摘する。

さて、これまでに論理的カテゴリーの展開過程と、現実の哲学史の進展とを、一義的に対応させて理解する試みも行われてきた。実際、たとえば『大論理学』において、論理的カテゴリーと哲学史上の特定の思想形態との対応関係を窺わせる記述も存在している。しかしながら、過度にそのような理解へと傾くことは、あまりにも歴史の展開を概念へと従属させるものと言わざるを得ない。(三重野清顕「哲学史講義」『ヘーゲル講義録入門』228)

 デリダによる、ヘーゲルの「否定性」や「最後の哲学」の説明。

「論駁」を捨て去ることができないため、ヘーゲルはその意味を拡張して、否定性の契機一般を意味させるにいたるまで膨張させます。知られているように、この否定性は一般的に歴史的生産、歴史一般の生産、生産、生産性一般にとって不可欠です。(23)

真にヘーゲル的な意味における最後の哲学とは、自己のなかにその過去の総体を含む哲学であり、その起源を必要とする、あるいはたえず起源を目指す哲学なのです。最後の言葉を発するためには、まさに最後の話者の後でお喋りをするのではなく、真に最後に話さなければならないのです。(24)

哲学史上のどの哲学も必然的なものであったし、いまもなお必然的なものであり、したがって、どれ一つとして没落することなく、すべてが一全体の要素として哲学のうちに保存されている、ということです。…原理は保存され、そして、これまでの一切の原理を集約するものとして最新の哲学はある。だから、どの哲学も否定されはしない。否定されるのは、個々の哲学の原理ではなくして、この原理を究極のもの、絶対的なものだとする考えです。(ヘーゲル哲学史講義Ⅰ』71)

哲学史を体系の最終部分に配置するという見解、哲学史を学問への導入として配置する見解については、三重野氏の論考も参照。

一方では体系の最終地点であり、他方では体系への導入であるという、哲学史の二重の性格づけを、ヘーゲルは晩年まで維持し続けた。このことは、一八二七/二八年の講義録の冒頭における「哲学史は、哲学研究への導入として講義されうる、あるいはむしろ哲学研究の終局としても講義されうる」(V6.277)という、ヘーゲル自身の言明をもって裏づけられる。(三重野清顕「哲学史講義」『ヘーゲル講義録入門』223)

 

精神において、哲学は自分自身を思考する精神の最高の形式であり、論駁はその現前のなかで保持されます-これをヘーゲル的でない用語で沈殿化と呼ぶこともできますが、この用語はヘーゲルの意図を歪曲しないと私は思います-。そして力の沈殿化は(ヘーゲルはここで力について語っています)自然現象ではなく精神的現象です。これは精神そのものなのです。(24)

哲学は最高の花であり、全精神形態の概念であり、全状況の意識であり精神的本質であり、おのれを思考する時代精神です。(ヘーゲル哲学史講義Ⅰ』91)