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エンツォ・トラヴェルソ『ポピュリズムとファシズム-21世紀の全体主義のゆくえ』

 著者は、ヨーロッパとアメリカで「現在台頭しているポピュリズム、二一世紀の極右勢力」を、「ポスト・ファシズム」(7)と位置づける。なぜ、「ポスト」なのか。それは、生物学的人種主義、軍国主義帝国主義といった特徴を有するファシズムの概念は「新しい現実を捉えるためには不適切であると同時に不可欠」であって、「連続性と変化の両方」からアプローチする必要があるからだ(10)。著者はポスト・ファシズムについて次のように指摘する。

ポスト・ファシズムは、不確定で不安定な、しばしば矛盾するイデオロギー的内容を明らかにしており、その中では、矛盾した政治的・哲学的諸要素がともに混在しているような歴史性-二一世紀初頭という歴史性-をもつ独特の体制に属している。(13-4)

そして、フランスの「国民戦線」を、このような変化の典型として取り上げる。例えば、古典的ファシズムは「すべてを変えることを望んだ」が、「国民戦線」は「体制をその内部から変えること」を目指しており、「法の支配を妥当し、民主主義を一掃しようとするヒトラームッソリーニ」とは異なっている(14)。

 このファシズムにおける「体制」の問題を視野に入れるときに「ポピュリズム」の概念が問題となる。著者はポピュリズムを「政治のスタイル」として、「大衆を「体制」への反対へと動員するために、国民の「生来の」美徳を称賛し、国民とエリート層とを-さらには社会それ自身と既存政治体制とを-対立させるようなレトリックの手順」(25)と説明した上で、次のように批判する。

ポピュリズム」や「ナショナル・ポピュリズム」の概念は、論争の境界を明確にするのを助ける代わりに、混乱を生み出す。こうした定義は、左翼と右翼の両方の潮流によって共有し得るもっぱら政治的スタイルのみに焦点を当てるのであって、その結果、根本的な本質がぼやかされてしまうことになる。(30)

 ここで、左翼と右翼の差異・境界として取り上げられるのがアイデンティティ政治である。右翼は「排除を目指すアイデンティティ主義」(62)である一方、左翼のアイデンティティ政治は「抑圧されたマイノリティ」(62)の「承認の要求」を目指すものであり、「開かれていて、今後変化していく可能性がある」(82)ものだ。著者は、政治の役割を「個々の主観性を克服し、それを超えること」と捉え、右翼の排他的なアイデンティティ政治を「危険であるし、長期的視野を欠いている」(84)と批判する。

 しかし、左翼に対する著者の視線は厳しい。アラブ革命、ウォール・ストリート選挙運動、スペインの「怒れる者の運動」、「ポデモス」、ギリシャの「シリザ」、イギリス労働党党首へのジェレミー・コービンの就任、フランスの「夜に立ち上がる」運動に対して、「希望の根拠を提供してくれる」(245)と述べつつも、問題点を指摘する。

少なくとも現時点では、最大の問題は、こうした抵抗運動が新しいプロジェクト、“新しいユートピア”の枠組みを描き出すことも、一九八九年に設置された精神的な檻から抜け出すこともできない、という点を露呈していることだ。…これらすべての運動は一定の共通する特徴を合わせもっているが、それらはばらばらに分かれていて、協調性を欠いている(245)

二〇世紀の革命が敗北を喫したために、その積み重なる影響が長期にわたって残ってきた。そのことは今日において全世界の社会運動の結びつきが欠如している、という事態の中にまさしく表現されている。その象徴的なケースがアラブ革命であり、この革命の担い手は自分たちの敵が誰なのかを明確に見定めたが、旧来の独裁体制にいかに取って代わるとか、既存の社会・経済的モデルをいかに変革するのかについての構想をもっていなかった。…全世界でオールタナティブの文化という織物をともに編み上げ、共同のプロジェクトを練り上げることは決して簡単な課題ではない。批判的構想は、政治的に無力であると同時に複雑でもあるので、当面、われわれができるのは、この間積み重ねてきた経験について意見を交換することだけである。(246)

 著者が語るようなユートピアやプロジェクトが希望となるのか、現在台頭している極右勢力に対向しうる政治勢力となるのかはわからない。また、批判的構想は政治的には無力であり、その無力さから政治的無関心が生まれるかもしれない。しかし、どのような希望を築き上げ、プロジェクトを練り上げていくにせよ、議論・意見交換することが土台となる。本書で取り上げられている、ポピュリズムファシズム全体主義に関する考察は、その足がかりとなるだろう。