yamachanのメモ

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ジャン=リュック・ナンシー『あまりに人間的なウイルス-COVID-19の哲学』

 「哲学は、その「形式」を、つまり「文体」を、つまり結局はその指し向けを渇望している。いかにして思考は自らを-思考に-差し向けるのか?」*1。本書の著者ジャン=リュック・ナンシーは、独自の文体によって、私たちが直面している新型コロナウイルス感染症の問題を提起している。時事的な内容ではあるものの、他のナンシーのテクストと同様、理解するのは容易ではない。それにもかかわらず、読みやすさを感じるのは、わかりやすい翻訳と丁寧な訳者注によるものだろう。
 訳者の伊藤潤一郎さんも解説しているように、ナンシーによる新型コロナウイルス感染症に関する最初の論考は、ジョルジョ・アガンベン「エピデミックの発明」に対する応答にあたる「ウイルス性の例外化」*2である。本論考は、國分功一郎さんが指摘しているように、「ごくありきたりの反論で、正直なところガッカリしました」*3と評しうる。
 しかし、『あまりに人間的なウイルス』を読むと、「ウイルスの例外化」は本書で展開されている思考の導入として読むことができる。「ウイルスの例外化」で取り上げられている「相互接続」や「文明の全体」の問題は、「自由」や「技術-経済権力」といった概念と絡み合い、読者の思考を触発することになる。例えば、「おきまりのように「例外措置」という表現をくりかえすことは、いわば拙速な同一視によってカール・シュミットの亡霊を出現させる」(4)として、ナンシーは政府批判に対して批判的な眼差しを向ける。

ここには、どこぞのマキャヴェッリ的陰謀家による腹黒い策略などまったくない。国家の著しい濫用などない。存在しているのは、相互接続という全般的な法則だけだ。そしてこの相互接続の派遣を握ることこそ、技術経済権力にとっての焦点なのである。(7)

ナンシーは、政府の支配構造のみに着目するのではなく、「技術-経済権力」という「地下に隠れた動き」(ⅳ)、「文明の変動」(106)にまで目を向ける。
 これは、ナンシーの政治的無関心、政治軽視を意味しない。むしろ、「不確実性」という観点からは、「民主主義」の問題について次のように語っている。

民主主義は、神権政治における「確実性」の体制が崩壊し、専制体制や独裁体制が袋小路に陥ったところから生まれた。民主主義とは、来るべきものへともに-人民として-関わる方法を見出そうという試みなのだ。民主主義が、未知のものや非-知を解消してくれるような計算や予測を生み出せることではない。民主主義がもたらしうるのは、有限性の重さと非-知とを平等な声で分有(パルタージュ)することであり、これをもたらしうるのは民主主義だけなのだ。(119)

ナンシーは「政府は部分的には…企業や経営者の道具にほかならない」(9)、「政府はこの例外化の哀れな執行者にすぎない」*4とも指摘する。コロナ禍における日本政府の対応を踏まえると、ナンシーの発言に対して同意できない人も少なくないだろう。また、自身も認めているように、何かを提案するわけでもない。
 しかし、伊藤さんが「訳者あとがき」の最後で述べているように、「本書を開く時と場所に応じて、そこから新たな思考が紡がれていく」(127)のである。そして、この「自由」と「思考」は、ナンシーの哲学の根幹に関わるものである。「私たちの権利、私たちの人間性、そして「自由」の意味を新たに発明しなければならない」(43)と語るナンシーは、アガンベンが見るその先の未来までを見据えているのかもしれない。

 

*1:ジャン=リュック・ナンシー『複数にして単数の存在』18

*2:現代思想 2020.5 緊急特集:感染/パンデミック』所収

*3:大澤真幸國分功一郎『コロナ時代の哲学』78

*4:現代思想 2020.5 緊急特集:感染/パンデミック』11