yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

國分功一郎・千葉雅也『言語が消滅する前に-「人間らしさ」をいかに取り戻すか?』

 「二人とも、極度に抽象的であることによってこそ、個別的な事例の現場に届くことがありうると信じている」(3)-國分功一郎氏が指摘している千葉雅也氏とのこの共通項のためか、二人の対談は共鳴しあっている。そして、千葉氏が語るように、この二人の「おしゃべり」は「創造的な開口部を照らすことになるかもしれない」(209)と思える内容だ。
 『中動態の世界』と『勉強の哲学』に関する議論から始まり、権威主義ポピュリズムエビデンス主義といったように、話題は多岐にのぼる。しかし、この多様なテーマに通底しているものがある。それが本書のタイトルにもなっている「言語の消滅」である。
 國分氏は「僕らはどんどん言葉を使わなくなってきている。だから言葉が人間を規定しているということの意味も想像できなくなっているかもしれない」(65)と指摘する。このことは、千葉氏が言うように、状況に対して「距離がなくなる」(161)という事態を招く。「そうすると敵対する関係の間の距離もなくなるから、もう直接衝突になっていく」(161)というのは、現在の政治状況を見ても明らかであろう。
 「超越性」も、二人にとって重要なテーマになっている。超越的なものがもともと上に存在していたとすると権威主義になるから、その発生を考える必要があるということだ。それは「権威主義なき権威」(132)を考えることである。千葉氏はこのことを「新たなる貴族への生成変化」「貴族的なるものの再発明」(131)と名づけている。これもまた、現在の民主主義の状況への批判になっている。
 二人のエビデンス主義に対する批判も鋭い。國分氏は「エビデンスには」反権威主義や民主主義的な側面もある」(189)一方で、次のような暴力性があることを指摘している。

ところが、エビデンス主義には別の側面があって、非常に少ないパラメーターだけを使って真理を認定するので、個人の物語を無視するわけです。斎藤環さんは、ブラシーボで治るならそれが一番いいと新聞に書いたら、エビデンスがないと強烈に叩かれたらしい。自分が治ったということは、本人にとっては大事な物語なのに、エビデンス主義は「それは誰にでも通用するわけじゃない」「科学的に根拠はない」と民主主義的な暴力で叩き潰してしまうところがあるわけです。(190)

千葉氏もまた、「エビデンス主義も法的発想と同じように責任回避に使われやすい」(191)として、「状況によって判断することの難しさと責任から逃れようとしている」(191)風潮を批判している。
 以上のように、「言語の消滅」を巡って議論は進むが、対談の最後(204-5)では「本当にあまりにも(日本は)グダグダなんで、かえって日本人の間では言葉への渇望が生まれたかもしれない」(千葉)、「情報と統計による管理があまりにも行き過ぎてしまったわけだから、言葉で人を動かすことの大切さが少しずつ理解されつつあるのではないか」(國分)と、二人の希望が語られている。政治・社会の個別の現場で「何か」違和感を持つ人がいるなら、そこにはこの「言語の消滅」の問題があるのかもしれない。そのことへの気づきと、その気づきから始まる希望を見い出すために、必読の一冊である。