yamachanのメモ

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小峰ひずみ『平成転向論-SEALDs 鷲田清一 谷川雁』

 「時代性が高く、また切実さを感じさせる文章で好感をもった」と東浩紀氏が本書の帯で語っているように、著者の問題意識-それは現代を生きる私たちも抱え込んでいる問題意識でもある-が書かれた一冊である。
 著者が注目するのはSEALDsと鷲田清一、そして谷川雁である。まず、SEALDsと鷲田が直面した困難は、政治と哲学における翻訳語が日常では使われない、という問題である。この困難に対して、SEALDsは「政治の場所で個人の言葉を語る」ことにより、鷲田は「哲学の場所で自分の言葉を語ること」により立ち向かおうとする。
 しかし、両者は「日常生活への回帰」において袂を分かつ。「生活への回帰こそが、政治を豊かにする」(54)という論理を採用するSEALDsは、日常での経験を優先するが故に、翻訳された政治用語を日常では放棄せざるを得ない。これは「あまりにも日本的で、あまりにも平凡な、私たちの転向の論理」(55)である。
 一方、鷲田は、哲学対話を通じて「人間関係のオルタナティブがありうることを日常の中で示した」(76)と著者は指摘する。そう、SEALDsとは異なり、「鷲田は哲学という言葉を捨てなかった」(77)のであり、それ故に鷲田は非転向者である。
 さらに、鷲田と谷川との差異について、次のように述べている。

谷川は「生活語に組織語の機能をあわせ与えること」を重視した。日常のなかで用いられる「生活語」の変化を夢見た。彼が行ったのは「生活語」の批判を通じて政治運動(「組織語」)をも批判することであった。対して、鷲田は哲学や当事者などの翻訳語を「現場で働く人たち」との議論を通して、日常生活のなかに置き直す。哲学とは何か、当事者とは何かと問うことを通じて、日常語を吟味していく。哲学(翻訳語)批判を通じて日常生活(日常語)批判を行ったのだ。谷川は「生活語」をはじめに選び、鷲田は翻訳語をはじめに選んだ。(108)

このような翻訳語批判と日常語批判を同時に敢行しうる場所が<地方>であり、SEALDsはこの<地方>を獲得できなかったのである。著者は次のように指摘する。「日常生活で「錯乱」を維持する」ためには、「「政治の場所で個人の言葉を語る」だけではなく、「日常生活の場で政治の言葉を語る」へと変えなければならない」(114-5)と。
 ここで重要なことが、この「維持」という概念である。著者がSEALDsに対して向ける「組織論を持ち合わせていない」(121)、「団結こそが力であるという社会運動の原則が叩き込まれていない」(122)という言葉は、「維持」や「持続性」の欠如を批判するものであろう。
 では、「維持」「持続性」の欠如にどう抗うか。著者は「エッセイストにならねばならない」(133)として、次のように述べる

私たちは二重の意味で集団主義者でなければならない。<党>とは、歴史を引き継ぐ方途であり、同時に、エッセイストの周囲にいる人々も含み込んで「生活を守る方途」へと転換しうる基盤である。私たちは。エッセイストの<党>の可能性を考えなければならない。(138)

 ここで注目すべきことは、エッセイストが実践している哲学対話に対しても、「この「対話」をめぐって階級分断が生じている」(140)と、批判的な眼差しを向けている点である。「「対話」こそ民主主義を阻害しているという可能性まで考えなければならない」(142)とまで指摘する。そして、この階級問題に応答しているエッセイストとして、本間直樹/ほんまなほ氏・高橋綾氏と、田中俊英氏を取り上げている。この二組は哲学者・支援者として、「対話」や「居場所」の土俵にあがってこない人々のところへ出向き、「対話」の空間や「居場所」を、支援者と当事者との協働でつくっているのである。
 本書と著者の経歴を通じてわかるように、著者の思考(知力)と身体(筋力)は「点」に止まろうとしない。今後の「哲学実践」(150)と「呼びかけ」(8)に注目してきたい。