yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

ハイエク「知識人と社会主義」

 ハイエクが語る「思想の力」は、これからの「リベラル」を考える上でも重要だと思うのでメモ。

 実際、目下のところ、自由社会のさらなる発展のための哲学的基礎付けという不可欠な作業ほど報われないものは他にないだろう。この作業にとりくむ者は、既成秩序の体制を受けいれなければならないわけだから、もっと大がかりな思索を好む知識人の目には単に現状を擁護するだけの臆病者と映り、同時に、実務家からは、非実用的な単なる理論家として無視されるようになる。(『ハイエク全集 社会主義と戦争』22)

  社会主義者の成功から真の自由主義者が学ぶべき最大の教訓は、夢想家(ユートピアン)になることを恐れぬ勇気をもつことだ。それによって、自由主義者は知識人から支持され、世論に影響を与え、ついこのあいだまで実現不可能だと考えられていたことを可能にすることができる。世論のあり様を前提に、実現可能と考えられていることだけにかかわってきた人びとは、世論を先導するという努力を怠るために、世論が変化すれば、それすらも政治的に不可能になってしまったことを知ることになる。自由社会の哲学的基盤の構築を、再度、興味あふれる知的問題とし、その実現をもっとも活動的な知性の創意と想像力をかきたてる課題にすることができなければ、自由の将来は本当に暗いものになってしまうだろう。しかし、最盛期にある自由主義の特徴である思想の力への信頼をとりもどすことができるならば、われわれは戦いに負けはしない。(26-7)

社会主義と戦争 (ハイエク全集 第2期)

社会主義と戦争 (ハイエク全集 第2期)

 

 

 

西部邁が語るジャック・デリダの脱構築

 西部邁の本は数冊読んだことがあり、今いろいろと読み返しているところ。『虚無の構造』では、ガタリの欲望機械やデリダ脱構築についても言及している。今回は、デリダ脱構築について語っているところをメモ。

 ここで、ジャック・デリダのいう「ディコンストラクション」に一言の解説を加えておくべきであろう。既存の論理を脱構築する能力も性向も、そもそも人間の精神に、ということはその言語に、秘められている。だが、いったい、どの方向にいかなる速度で脱構築するのかが問題である。それについて選択肢がないというのでは決定論に陥る。簡単な場合でいうと、モダニズムへの脱構築はプレモダニズム(記憶の回復)としてもポストモダニズム(想像の解放)としても可能なのだ。いずれをいかに実現するかはやはり選択さるべき課題である。そしてそれが選択であるからには、そこに選択の基準があるとしなければならない。

 元来、脱構築は「反構築」と同じではないはずだ。既成の構築を脱しつづける過程で、またその極限で、実在(真理)といえるほどのものを感得したり把握したりしたいという構築の構えがあればこそ、それは反構築とは、つまり破壊主義とは異なるのである。そのことは、論理の脱構築のためにも論理の構築が必要であるということによって、あらかじめ示唆されてもいる。ヴィトゲンシュタインはそれをさして「もしドアの開閉を望むならば、蝶番は固定されていなければならない」といった。つまり選択基準という蝶番が外れていなければ、脱構築というドアの開閉もままならぬということである。

 見逃すわけにはいかないのは、選択基準が「固定」されているということである。我が国で思想家を名乗るものたちの多くは、ヴィトゲンシュタインがこの意味で保守思想家であることを知ろうとしない。選択基準が固定されているのは、言葉が「ユーセジ(慣習的用法)」を必要としている、ということを意味している。ここでの論述に即していうと、歴史の産物たる価値と慣習から選択基準を導き出すという能力を失うということは、言語の活動力をなくすということにほぼ等しい。事実、現代人の言語能力ははなはだしく減退している。そして、これが欲望機械に身をあずけるわけにはいかない最大の理由となる。言語能力を喪失することが人間の欲望であろうはずがない。言語能力を存分に発揮するのが人間にとっての最高の欲望である、といったほうが適切なくらいである。さすれば、欲望機械なるものの制御棒がメルトダウンしているために、現代人の欲望が情報・技術の新奇さという放射能によって汚染されている、とみてさしつかえないであろう。(94-5) 

  「言語能力を存分に発揮するのが人間にとっての最高の欲望である」と語っていた西部邁氏が、2014年に出版された『大衆への反逆』(文春学藝ライブラリー)の「私のことなど御放念いただきたいー文春学藝ライブラリー版あとがきにかえて」で、「生きているあいだは、オツムが動きを止めないかぎり、何事かを問われれば、私は何らかの応答をするのではあろう。しかしそんな半死半生の言葉に意味が宿ってくれるわけがない」(385)と語っているのは、何とも言えない気持ちになる。西部邁氏の著作、引き続き読んでいきたい。

虚無の構造 (中公文庫)

虚無の構造 (中公文庫)

 

 

大衆への反逆 (文春学藝ライブラリー)

大衆への反逆 (文春学藝ライブラリー)

 

 

ハイエクの知的エリート主義について

 ハイエクを読んでいく中で、やはり伝記のようなものを読みたいと思い、ラニー・エーベンシュタイン『フリードリヒ・ハイエク』を読んでいる。以下、ハイエクの知的エリート主義についての記述をメモ。

 『通貨国家主義と国際的安定性』の中で、ハイエクは純粋に理念的に構築された世界観を披露している。

 

 理論仮説がすぐに影響を及ぼすということは少ないかもしれない。だが、金融政策は議論の対象ではないという今日主流の見解を形作る上で、理論仮説は多大な影響力を発揮してきた。……

 このような学究的議論こそが長期的には世論を形成し、それが後の政策を決めていくことになる、私は固く信じている。……

 安定的な国際制度の基盤を構築するためにはまず、理念の分野でやっておくべきことが多くある。……

 長い目で見れば、人間社会の出来事は知力に導かれていると私は確信している。そう信じるからこそ、このような抽象的な考察が重要だと思うのだ。たとえ、そんな考察が直近の実現可能性については何の役にも立たないとしてもだ。

 

 彼は、徹底して知的エリート主義者だった。彼のような人間が生みだした考えが最終的には世論や社会の出来事を導いていくとはっきりと述べている。この点から言うと、彼は道徳主義者だ。誰よりも熱心に献身的に、公共善を追求したのだ。彼の初期の専門的な経済学研究が、実証分析として、また規範的理論として有効だったかについては議論の余地があるかもしれない。しかし、彼の研究活動を貫く、公共善の追及については疑う余地はない。そして、彼の徹底した知的エリート主義についても忘れてはならない。(120-1)

 シュンペーターのエリート主義と似ているようでどこか違う気がするので、また確認しよう。

フリードリヒ・ハイエク

フリードリヒ・ハイエク

 

 

ケルゼン「現代民主制論批判」(『ハンス・ケルゼン著作集Ⅰ』所収)

 ケルゼンによるハイエク批判のメモ。

徹底的に分権的で、殺人と近親相姦の禁止のような最低限の規制のみをもつ原始的な社会秩序とて、集権化のある段階である。それに比べれば、近代国家はかなりの範囲の規制対象をもち、はるかに集権度が高いが、全体主義とはいえない。確かに社会主義は、経済生活の集権化であるから、団体主義ではあるが、経済の集団化が人間生活全体の集団化を必然的にもたらすものかどうかがまさしく問題である。「経済生活の集権化は必然的に人間生活全体の集権化もたらす」と考える人々は、次のように説く、「経済生活と他の人間生活とを分離することはできない。なぜなら、経済以外の目的を実現するためにも、経済的手段が不可欠だからである。経済はあくまで目的のための手段であって、究極目的は経済的なものではない。例えば宗教的信仰を共有する人々が、その信仰箇条の求める共同の礼拝を行おうとすれば、その場としての建物が必要となる。即ち精神的必要を実現するための経済的手段が必要となる。そこで経済的手段が中央権力の統制下に置かれている社会主義社会においては、目的の実現はこの権力の決断に依存する。即ち権力は非経済的目的をも統制することになるのである。従って国民はこの目的実現を自由に実現する訳にいかなくなる」、と。それはその通りであるが、資本主義社会において、状況がこれと異なっているであろうか?計画経済でなければ、非経済的必要の実現は自由に探求され得るものであろうか?先の例でいえば、信者たちに礼拝のための建物を買う金がなければ、銀行の融資を求めるかも知れないが、銀行の方でもっと確実で有利な投資先があれば、融資を断るであろう。もちろん資本主義社会では銀行間に競争があり、彼らは別の銀行に融資を求めることもできる。しかしこれとてうまくいくとは限らない。融資してくれる銀行が見つからなければ、資本主義社会においても、宗教的欲求を経済的手段を用いて実現することは、社会主義社会の場合と同様に、自由ではないこととなる。仮に憲法が信教の自由を保障していてもである。ハイエクは、資本主義社会においては、「困難は、誰かが我々の目的に反対するからではなく、誰かが同一の手段を需要するから生ずる」のだと言う。しかし非経済的目的のための経済的手段を「誰かが需要すれば」、自由ではないではないか。礼拝のために建物を必要とする者の立場から見て、その必要な経済的手段を与えることを拒否する者が銀行であろうと、国家であろうと違いはない。また「社会主義経済体制においては、仕事を選ぶ自由がなくなる」という主張もある。それはその通りだが、資本主義経済体制においても、その自由を享受するのは特権的な少数者である。職業選択の自由を立法的・行政的・司法的に制約することは禁止されているにも拘わらず。(291-2)

ハイエクは資本主義者社会を擁護して次のように言う。曰く「貨幣は人間が発明したものの中で最も偉大な自由の道具である。現在の社会において、貨幣こそが、貧しき者に驚くべき選択の範囲を開いた。現在貧者が有している選択範囲は、数世代前に富者に開かれていた範囲より大きい」と。しかしそれは貧民が貨幣を有していればの話である。しかし「カネ持ちの貧民」とは形容矛盾ではないか。(312)

 「現代民主制論批判」のハイエク批判の箇所では、立法(法創造)、行政・司法(法適用)における民主化の問題も議論されており、大変勉強になる。

ハンス・ケルゼン著作集 1 民主主義論

ハンス・ケルゼン著作集 1 民主主義論

 

 

 

ミシェル・フーコー『生政治の誕生』

 フーコーは『生政治の誕生』の中で、ハイエクのことを「現代の自由主義の定義づけにとって非常に大きな重要性を持っていました」(129)と取り上げ、ハイエクについて何度か言及している。気になったところをメモ。

経済は一つのゲームであり、経済に枠組を与える法制度はゲームの規則として考えなければならないということ。法の支配と法治国家によって、統治の行動が、経済ゲームに規則を与えるものとして形式化されるということです。その経済ゲームを行う者、つまり現実の経済主体は、個々人のみ、あるいは、こう言ってよければ、企業のみです。国家によって保証された法的かつ制度的枠組みの内部において規則づけられた企業間のゲーム。これこそ、刷新された資本主義における制度的枠組みとなるべきものの一般的形式です。経済ゲームの規則であり、意図的な経済的かつ社会的管理ではないということ。経済における法治国家ないし経済における法の支配のこのような定義こそ、ハイエクが、非常に明快であると私には思われる一節のなかで特徴づけているものです。彼は計画について次のように語ります。まさしく法治国家ないし法の支配と対立するものとして、「計画は、一つの明確な目的に到達するために社会の資源が意識的に導かれなければならないということを示す。法の支配は、逆に、その内部において個々人が自らの個人的計画に従って自らの活動に身を委ねるような、最も合理的な枠組をつくろうとするものである。」あるいはまた、ポランニーは、『自由の論理』のなかで次のように書いています。「法システムの主要な機能、それは、経済的生の自然発生的秩序を統治することである。法律のシステムは、生産と分配の競争メカニズムが従う諸規則を発達させ、強化しなければならない。」したがって、ゲームの規則としての法律システムがあり、次いで、自然発生的な経済プロセスを通じてある種の具体的秩序を表明するようなゲームがあるということです。(213-4)

数年前に、彼(ハイエク)は次のように語りました。我々が必要とするもの、それは、生ける思考としての自由主義である。自由主義は、ユートピアを作り上げる作業を社会主義者たちにずっと任せてきた。そしてこのユートピア的あるいはユートピア化する活動によって、社会主義はその力強さとその歴史的ダイナミズムを得たのだった。そこで、自由主義にもやはりユートピアが必要である。我々の役目は、自由主義を統治の技術的代案として提示することよりもむしろ、自由主義ユートピアをつくること、自由主義の様態にもとづいて思考することなのだ、と。思考、分析、想像力の一般的スタイルとしての自由主義。(269)