yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

1973年という画期(宮台真司『増補 サブカルチャー神話解体』)(2025年5月20日 荒野塾 復習)

「本書では、戦後サブカルチャーの意味論的な画期をおよそ、1955年、64年、73年、77年、83年、88年、92年に設定する」(宮台真司『増補 サブカルチャー神話解体』10)とあり、第2回『社会意識と社会構造』の中では主に「1973年」の画期(エポック)についてのお話があったのでメモ。

〇講義メモ

・73年が、その後の最も大きなエポック(画期・分割線)

・73年以前は「若者」という概念があった。73年以降は「若者」という概念は完全に消えた=「若者」という言葉で誰もが想起する「何か『大人』と違うものがあるよね」という発想が失われた=「<個人化>の時代」(=「我々」意識がない)

・73年以降、連帯ができない。「若者」(=「大人だけど大人じゃないよ」という連帯の符号)が消滅すると、「若者」と対立する「大人」も消滅。

・「若者」も「大人」もいなくなってただバラバラの「個人」がいるだけになるとポジションの計測・位置づけができなくなる=アノミー(前提喪失状態)

・少女マンガの変化が73年において非常に重要。73年以前、一条ゆかり『ふたりだけの星』=「代理体験もの・波乱万丈もの」。73年以降、陸奥A子『たそがれ時に見つけたの』=「これってあたし!」(=「関係性モデル」)→享受形式が全く変わった

・「若者」の時代が終わり、分断され孤立=アノミー(=モデルがない)に。そのような状態だから、マンガ表現の中に「これってあたし!」という風に自分と同じ存在を見つけて、それと自分を同一視してて癒されたり安心したりするという享受形態が生まれた

 

宮台真司『増補 サブカルチャー神話解体』

・73~76年「変異の時代」、70年代の末期「選択の時代」(490)

・[「<大人>/<若者>]という相補的な共通コードが崩壊し、「連帯する内部」が消滅。「シラケの時代」の到来。<我々>としての自己ではなく、唯一性としての<私>が浮上(31)
・恐怖コミックにおける変化。「共同体の記憶」から「失われた個人の記憶」へ(31)
・「大人のみならず同世代からも疎外された私」の主題化(大島弓子ミモザ館でつかまえて』)(32)

・周囲の大人のみならず同世代にも馴染めない「私にしか分からない<私>」を作品群が、周囲からの疎外感に悩む一部の女の子たちに「これってあたし!」と熱狂的に受け入れられた(113)

・大衆的かつ肯定的な形で「私らしい私」を取り扱う『りぼん』に集まった「乙女ちっく」の作家。「周囲を否定する」カウンターカルチャーから自己充足的なものへ=周囲から取り残された劣等で不安な「ダメな私」が、周囲を否定することなくそのまま肯定された(32)

・「これってあたし!」そのものであるダメな主人公がそのまま肯定される。→<関係性モデル>が規範的なものかから認知的なものへ。<関係性モデル>の主語も<我々>から<私>へと変化(32)

・73年に登場する「乙女ちっく」は、<私>を読むための<関係性>モデルとしての少女マンガの始まりである点で少女マンガ史上において画期的。「いまのままの<私>でいいのだ」「<私>のままでいつか誰かに愛される」という「陥没した眼差し」に対して発せられた自己肯定のメッセージ(40,79)

・「乙女ちっく」以降、少女マンガの主流は、<代理体験>ものから<現実解釈>ものへ移転(40-1,79)

・「乙女ちっく」は、「性的コミュニケーションが自由であることによるアノミー」を伝統的な予定調和の手法により癒す。「性的な身体であろうとする不安」(≠「性的な身体であらざるをえながゆえの不安」)→77年以降の「乙女ちっくの進化」を可能とする(32-3)

・70年代前半の「乙女ちっく」における「私だけが分かる<私>」が画期的だったのは、前代の「<我々>すべてが目指すべき自己」と決定的に異なって、<我々>としての共通性(=<若者>としての共通コード)が当てにされていなかったこと。むしろ、共通コードから疎外されている可能性こそが照準されていたといえる(125)

・女の子たちは、「60年代的サブカルチャー」の時代のような<我々>としての内容的な共通性の代わりに、コミュニケーションの形式的な同一性を当てにできるようになった。各人によっていかようにも異なりうる「本当の<私>」を詮索するのをやめ、「みんな同じ」であることを巧妙に先取りしてしまうコミュニケーション。それこそが、キュートな「かわいさ」の、対人関係ツールとしての本質的な機能(126)

少年マンガでは、「反<世間>的な文脈の脱落に伴うドラマツルギーへの純化」と「<課題達成>における自己確認というサブカルチャー的構成そのものをパロディー化する『がきデカ』(1974)的方向」という別の形をとる。少年マンガに「これってあたし!」的な<関係性モデル>が導入されるのは77年を過ぎてのこと(33)

・60年代の「小さな個人」という意識が痛切な<疎外>感や<解放>への希求に彩られたものに対して、とりわけ73年以降のそれが基本的に現状肯定的な色合いにかわった(276)

・72年の連合赤軍事件は「60年代的サブカルチャー」の挫折が明確に意識される一つの重要なエポック。これ以降「60年代的サブカルチャー」は伝承戦を見失い、無害化された「団塊世代サブカルチャー」として若者文化の前面から退いていく→「唯一性としての<私>」「私だけが分かる<私>」が問題化し始める(少女マンガの「乙女ちっく」に代表される<関係性モデル>の出現)(286)

 

宮台真司『制服少女たちの選択ー完全版 After30Years』

七〇年代に入ると…ティーンたちの共通コードは崩壊し、同時に共通の外部地平も消えた。そうしたなかで、社交技術の不在を埋めあわせ、探りを入れるプロセスを免除するような「負担免除」の機能をはたすコミュニケーション・ツールが、まさに要求されていたが、ちょうどそこに、新人類的なものが-記号的消費と対人関係との結合が-登場した。(251)

七〇年代に入って、世代間対立を支えていた共通の「外部地平」が消失すると、親や世間といった「敵」を前にして自分たちの共同性(無限定的な同一性!)を確認しみずからを鼓舞するいままでの作法は通用しなくなって、<若者>というシンボルは、またたくまに放棄されてしまう。かわりに、縦割りの小さなコミュニケーション集団の内部だけで通用する共通のシンボルが選択されるようになった。結論からいえば、こうして登場したのが、新人類やオタクの「共振的(シンクロナル)コミュニケーション」だった。

意外なことだが、この「共振的コミュニケーション」のはじまりは、まる文字で書かれた交換日記や「乙女ちっく」と呼ばれる少女マンガと結びつくかたちで七三年に立ちあがった、女子たちの「かわいいコミュニケーション」だった。これは、六〇年代的な<若者>という共同性が失われたことによるコミュニケーションの手がかりの喪失を、かわいいモノのやり取りによって演出される幻想的な「かわいい共同性」によって埋めあわせるものだった。しかし重要なことだが、この「かわいい共同性」には内実というものがない。(258-60)

 

 

 

三島由紀夫「果し得ていない約束-私の中の二十五年」(2025年5月20日 荒野塾 復習)

第2回『社会意識と社会構造』の中で、三島由紀夫の「空っぽの日本」についての言及があったのでメモ。

三島は70年の秋に死んだので73年を知らない。だから三島は、若者と大人に日本人が分断されていることをすごく憂いた。でも、73年以降を知っている私たちにとっては、三島のような評価にはならない。つまり、若者と大人で対立しているようなある種のインテグリティ・まとまりがあり、それも幸いであることを私たちは知っている。

一方で、三島は自殺する4ヵ月前に書いた産経新聞上のエッセイ(「果し得ていない約束-私の中の二十五年」)で、「置換可能な(replaceable)・無色透明な・無機質な存在がいるだけになっている」ことを指摘しており、それはむしろ73年以降のこと(「<若者>の消滅=<個人化>の時代」)を指しているように感じる。

 

三島由紀夫「果し得ていない約束-私の中の二十五年」

二十五年間に希望を一つ一つ失って、もはや行き着く先が見えてしまったような今日では、その幾多の希望がいかに空虚で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であったかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使っていたら、もう少しどうにかなっていたのではないか。

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。(三島由紀夫『文化防衛論』372-3)*1

〇「空っぽの日本」を何で埋めるのか-社会学者・宮台真司氏に聞く 三島由紀夫50年後の問い(2)(『日本経済新聞』2020年10月21日)

www.nikkei.com

宮台氏は「50年前に三島が予言した通りの状況が今の日本にある」とみる。「人間は基本的に弱いことを三島はよくわかっていた。だから私たちが生きるための不動点を見いだせるように扉を開いてくれた。日本が『空っぽ』な限り、三島の問いは有効であり続ける」

 

〇「脳内エコーチェンバー化」と日本特有の「空気」 宮台真司氏の抵抗(朝日新聞2023年5月6日)

digital.asahi.com

1960年代の団地化で地域が、80年代のコンビニ化で家族が、そして90年代中ごろからのケータイ化で関係全般が、空洞化し、以降「KY(空気を読めない)」を恐れてキャラを演じるだけの関係に、若者が支配されはじめます。それから四半世紀を経て彼らの子どもが若者となり、今は言いたいことを言えない空気が全体化しています。

日本人は古くから空気を読んで所属集団内のポジション取りをしがちです。三島由紀夫は「天皇主義者が一夜にして民主主義者に早変わり」と言い、価値観を欠く「空っぽ」ぶりを指摘しました。英公共放送BBCが発信するまで「ジャニー喜多川問題」を報じなかったマスメディアも「空気を読んだポジション取り」の例外ではありません。

今の状況が続けば社会は確実に劣化し、ゆえに経済も政治も劣化します。それでますます生きづらくなり、「脳内エコーチェンバー化」による事件も増えるでしょう。

 

(以下、コメントプラス)

20世紀半ば、ワイマール共和国がナチス独裁に急変した理由を研究したフランクフルト学派が統計を元に示す通り、相対的剥奪感を「言葉の自動機械」的な差別で埋め合せるのは、不安ゆえの神経症。マジガチで信じちゃダメDon't take it seriously。

似た流れが国外にも拡がります。日本の3段階の郊外化に対応するソーシャルキャピタル減衰が統計的には80年代から各国で進んだ所に、90年代後半からネット化に見舞われたからです。日本は課題先進国problem advanced nationであるに過ぎません。

課題先進国なのは、空気を読んで所属集団でポジション取りする、三島由紀夫が言う「天皇主義者が一夜にして民主主義者に」の類の価値観の「空っぽ」ゆえ。80年代から告発されてきたのに「ジャニー喜多川問題」が放置されてきたきも同断です。

 

橋川文三三島由紀夫について

講義内でも触れられ、日本経済新聞の記事でも取り上げられている橋川文三については、橋川文三三島由紀夫』を参照。三島由紀夫『文化防衛論』には、「橋川文三氏への公開状」が収録されている。

また、いいだもも『1970・11・25三島由紀夫』所収の宮台真司「おかしさに色彩られた悲しくも崇高なバラード」も参考になる。

もちろん三島のいうのは、共産体制とは「言論の自由」と、それによって支えられる「文化の全体性」に対するそもそもの反対概念であり、その体制下では、文化の全体性を象徴する天皇の意味は当然にありえないという論理になっているのだが、ここでの疑問は、あえて共産政体をもちだすまでもなく、すでに明治憲法体制の下で、天皇はその意味での機能を失ってしまったというのが三島の見解だったのではないか、ということである。近代史以降、天皇は「一度もその本質である『文化概念』としての形姿を如実に示されたことはなかった」ということは、凡そ近代国家の論理と、文化概念としての、いわば美の総攬者としての天皇の論理とがどこかであい入れないものを含んでいたことにもとづくはずである。(橋川文三三島由紀夫』31)

私の理解では、まさに「文化概念としての天皇制」が現実化したのちに、はじめて成立し得るような天皇と軍との関係を三島はロマンティクに先取りしているのはないかと思われるのだが、もしそうだとすれば、それは論理的にはもちろん、事実の手順からいっても、不可能な空想である。実現の可能性があるのは、天皇の政治家という以外のものではないであろう。…

ただ、ここで三島が、共産革命防止を究極の目的として天皇と軍隊の直結を言っているのなら、それは政策論として少しも非論理的ではない。ただし、その場合は、実はかえって明治の士族反乱に似たものをひきおこすであろうという可能性を計算に入れなければならないが、少なくともそれ自体は合理的な考え方である。しかし、もしこの三島の目的が「文化概念としての天皇」の擁護にあるとするならば、それは論理的でもなく、現実的でもないことになる。(同)

貴兄のこの二点の設問に、私はたしかにギャフンと参ったけれども。私自身が参ったという「責任」を感じなかったことも事実なのです。なぜなら、正にこの二点こそ、私ではなくて、天皇その御方が、不断に問われてきた論理的矛盾ではなかったでしょうか。この二点を問いつめることこそ、現下の、又、将来の天皇制のあり方についての、根本的な問題提起ではないでしょうか。(三島由紀夫『文化防衛論』83)

私が、天皇なる伝統のエッセンスを衍用しつつ、文化の空間的連続性をその全体性の位置要件としてかかげて、その内容を「言論の自由」だと規定したたくらみにご留意ねがいたい。なぜなら、私はここで故意にアナクロニズムを犯しているからです。過去二千年に一度も実現されなかったほどの、民主主義日本の「言論の自由」という、このもっとも尖端的な現象から、これに耐えて存立している天皇というものを逆証明し、そればかりでなく、現下の言論の自由が惹起している無秩序を、むしろ天皇の本質として逆規定しようとしているのです。(同83-4)

 

 

 

 

*1:内田隆三はこの箇所を引用して、「これがおそらくは戦後の終った時である。戦後を否定し続けた人間がその「約束」を果たす直前に洩らした言葉である」(内田隆三『国土論』253)と指摘している。

松本健一の「一九六四年社会転換説」(松本健一『竹内好「日本のアジア主義」精読』)(2025年5月20日 荒野塾 復習)

第2回『社会意識と社会構造』の中で、松本健一の「一九六四年社会転換説」の議論があったので、家にある文献からメモ。

谷川雁が一切の活動をやめて上京した一九六五年に、司馬遼太郎がいわば現代人日本人の理想像として坂本竜馬(『竜馬がゆく』)を提出していたことに、わたしは日本社会の大きな転換の影を見出しておきたい。…

国民がどのような人物を理想像とするかは、そのときの国民のエートス(精神)がどのようなかたちをもっているかをあからさまに物語っていよう。その意味で、現代の日本人が西郷隆盛に理想像を求めたくなったということは、西洋の「文明」を超えるアジア的な革命に心魅かれなくなった、ということなのかもしれない。(162-3)

それ(一九六四年)は日本社会が、いわばアジアから西欧へと大きく移行していった時期だった。…

極論すれば、一九六四年とは、日本が「アジア」ではなくなった最初の年であった。いや、日本ばかりではなく、アジアの近代化とは、わたしがかつて『大川周明-百年の日本とアジア』(一九八六年刊)に記したごとく、「アジアがアジアでなくなるこの百年の過程であった」。日本がその近代化=欧化百年のの最終過程をむかえたのが、一九六四年であった。

改めて確認しておかなければならないが、竹内好が「日本のアジア主義」を発表したのは、一九六三年だった。それは、日本の近代史から「アジア主義」という思想概念を抽出する最後の、ぎりぎりの歴史的季節だったのではないか。(164-5)

日本は一九六四年以後、短期的にみて「戦後」という特殊な一時期を脱するとともに、より大きな歴史的枠組み(パラダイム)である「近代日本」を抜け出ていったのである。

では、その「近代日本」というパラダイムが意味するものとは、何か。かんたんに要約すれば、日本が遅れたアジアから脱しつつ西洋近代を後ろから追いかける(脱亜入欧)という構図によって成り立っていた社会、とでもいえばよいだろうか。一九六四年に開催された東京オリンピックが「アジアで最初のオリンピック」という形容を付されたことは、すでにふれた。そして、その形容の言葉それじたいに、日本が「遅れたアジアから脱しつつ西欧近代を後ろから追いかける」構図そのものを読みとることができるだろう。(166-7)

松本健一「1964年以後」(『朝日新聞』一九七九年九月四日号)

この十数年間における社会の変貌は、ちょっと言葉ではいいあらわしにくいほど急激である。テレビや冷蔵庫や自動車などがもうずっと以前からそこにあるように家庭におさまり、高層建築や歩道橋や高速道路やハウス栽培のためのビニール室も見なれた光景になった。

ニュータウン、ニューファミリー、ニューミュージック、ニュージャーナリズムといったような、頭にニューのついた社会現象、文化現象も、この十数年間の社会的変貌によって生みだされたものにほかならない。ところで、この社会的変貌は、一九六四年(昭和三十九年)あたりからはじまっているようにおもわれるが、どうだろう。

なぜ、一九六四年にその指標をおくか、といえば、この年に東京オリンピック、新幹線、ビートルズなどの新現象というか新事態が、わがくにに出現しているからだ。そしてそれらは、たんに新現象、新事態なのではなくて、社会の構造上の変化そのものを表象しているような気が、わたしにはする。(167-8)

 

一九六四年以後のわたくには、その「近代日本」の枠組みをはずして、西欧と横一線の「近代そのもの」に到達したとみてよいのではないか。いや、それどころか、公害といった現象にも明らかなごとく、わがくにはきわめて急速な近代化によって、西欧に先立って「近代の末路」を突き出した感さえなくはない。(170)

社会の構造上の変化においては、一九四五年よりも一九六四年のほうを重視しており、その一九六四年において「近代日本」という歴史的枠組み(パラダイム)が終わった、と指摘していた…。それが、わたしの「一九六四年社会転換説」という仮説だった。(169)

 

 

 

郊外化に関するメモ(宮台真司×野田智義『経営リーダーのための社会システム論-構造的問題と僕らの未来』)(2025年5月13日 荒野塾 復習)

Jホラー論で郊外化の話が出てきたので、宮台真司×野田智義『経営リーダーのための社会システム論-構造的問題と僕らの未来』に出てくる3段階目の郊外化についてメモ

 

〇1段階めの郊外化=団地化(1960~)(73)

・地域の空洞化:興奮やお祭り感覚などの「体験」を人々がシェアできなくなる。

・家族の内閉化(専業主婦の一般化):家族が必要とする便益を専業主婦が担う。

 

〇2段階めの郊外化=コンビニ化(1980~)(74)

・家族の空洞化:「個食化」「(電話やテレビの)個室化」が進む。

・システム化(市場化と行政化):コンビニ(市場)や保育園(行政)

・80年代末の殺人事件:女子高生コンクリート詰め殺害事件、連続幼女誘拐殺人事件。「一つ屋根の下にいるアカの他人」(77)。

 

〇3段階めの郊外化:インターネット化(1990年代後半~現代)(151)

・人間関係の空洞化と対面の減少(匿名化)

・システム世界の全域化 → 感情の劣化

・人間関係の損得化:①コストパフォーマンスだけで人間関係を測る → つまみ食い的人間関係、②子どもをつくるかどうかが損得勘定による判断へ → 少子化、③企業と社員の関係の損得化 → 労働機能と賃金だけで結ばれる。

 

 

 

 

 

 

 

宮台真司『崩壊を加速させよ』(2025年5月13日 荒野塾 復習)

今回の荒野塾でホラー論への言及があったため、宮台真司『崩壊を加速させよ』所収の「『呪怨:呪いの家』「場所の呪い」を描くJホラーVer.2、あるいは「人間主義の非人間性=脱人間主義人間性」を読む。以下、メモ。

realsound.jp

〇ホラー映画の批評機能を通じて日本社会の劣化の歴史を辿れる。

・「Jホラー」は、呪われる側が「新住民」であるから、伝統的な「日本の怪談」と違って「戦後の再近代化」批判としての彩りを帯びる。

 

〇日本社会の顕在的劣化は1996年に始まり、それは80年代の新住民*1的ジェントリフィケーション(環境浄化)に由来する。

・繋がりのない人間たちが集住するようになり、一見平穏な住宅街でも昔の近隣関係も家族関係もないため、共通感覚も共通前提もない。それにより、危険な公園遊具の撤去運動がおこり、花火の水平撃ちも、焚火も軒並みダメとなる。

・50年代後半からの「団地化=第一次郊外化」では新住民はマイノリティだったが、80年代半ばからの「コンビニ化=第二次郊外化」以降になると新住民がマジョリティになり、それが「JホラーVer.1」と「JホラーVer.2」との差異に繋がる。

→単なる合理化だとされたシステム化(第一次郊外化まで)が、汎システム化段階へと進化した80年代以降になると(第二次郊外化以降)、人間が選択の主体であるがゆえの「人間主義の非人間性(閉ざされ)/脱人間主義人間性(開かれ)」という気づきに至る。→同種の気づきが90年代に各国に拡がる(「二度目の存在論的転回」)*2

当初は「我々」がシステムを道具として使っていたのが、システム化によって生活世界が縮小して「我々」が消え、分断され孤立した個人がシステムの駒に堕する事態が、汎システム化だ。主体が「我々」からシステムへと移るのだ。

汎システム化が生活世界を破壊、人が孤立状態でシステム(市場と行政)に向き合うようになった結果、不安を背景とした「感情の劣化」が広汎に生じる。そこには、ホモ属が他の霊長類よりも孤独を嫌う社会的動物として進化したというゲノム的前提と、同じ時間でより多くの獲物と収穫物を得るために負担免除を追求するゲノム的前提との間の、矛盾がある。

負担免除(技術)によって人間がもっと多くの選択肢を得ることを良しとする「人間中心主義」が、負担免除の装置であるシステム(市場と行政)の見通し難い複雑化をもたらした結果、人間がシステムの入替可能な部品になり下がるという「非人間性」を招き寄せたのだ。これが「人間中心主義の非人間性=技術による総駆り立て(後期ハイデガー)」という事態だ。

・「不穏な気配を漂わせる只ならぬもの」(鏡や揺れるカーテン)が、「JホラーVer.1」から一貫してきたもの。

・「「よく見る」と過剰や過少が現れる」は、戦後の再近代化が余りに急だった日本ならではのモチーフ。「時空の過剰と過少」=「脱機能性=脱システム性」。それらは「凝視=よく見ること」で現れてきて、そこが「社会への<閉ざされ>から、「世界への<開かれ>に通じる扉」になる。

世論調査で日本人が「アジア(後進国)の一員」から「西側(先進国)の一員」という意識に変わったのが1964年(東京五輪の年)。「場所で忘れられた人や動物に復讐される」という「JホラーVer.1」の元年1963年に重なる。

・90年代半ばには、80年代以来の「新住民化=第二次郊外化=汎システム化」の結果、社会がフラットな「光」に包まれた裏面で、「社会の闇」が「心の闇」へと移転し、90年代の「狂いの顕在化」(95年は援交のピーク、阪神淡路大震災とオウムのサリン事件。97年は酒鬼薔薇聖斗事件、96年は『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズに象徴されるアダルトチルドレン自傷系のブームの起点、ストーカー騒動とセクハラ騒動元年。97年には「新しい歴史教科書をつくる会」結成、東電OL殺人事件)に繋がった。

 

〇1963年~1996年:JホラーVer.1。

・「旅人がその土地を知らない」という「ワキモチーフ」から「住む人がその土地を知らない」という「新住民モチーフ」へとシフトした時点で「JホラーVer.1」が始まった。出発点は1963年創刊『週刊マーガレット』(古賀真一)と1962年創刊『週刊少女フレンド』(楳図かずお)の少女怪奇漫画。都市伝説と密接に関係する。

・土地のゆかりなきものとして旅人ならぬ新住民を持ち出す「Ver.1」は「経済成長に伴う地域空洞化」に関係。

・呪う人や動物をモチーフとし、「場所で忘れられた人や動物に焦点を当て、「忘れるな」と呼び掛ける。

・生活世界(=「場所の場所性))を忘れない方が=システム世界への適応を程々にした方が幸せなのにと示唆する。

・「法外のシンクロ」が生じる時空。「社会の外」に濃密な時間が拡がる。「外を忘れるな」。

・鏡が映す「忘れられた者」におののく。

 

〇1997年に黒沢清監督『CUREキュア』。

・「その土地で忘れられた者が、相手が旅人(能)(日本の伝統ホラー)であれ新住民(少女漫画)であれ、思いを伝えにやってくる」という形式とは異なる「新しい腐敗」を描く。

・呪う主体は、人や動物ではなく、土地の時空そのもの。「忘れられた者」はいない。

・生活世界(=「場所の場所性))を忘れた方が=システム世界に適応しきった方が幸せなのにと示唆する。

 

〇1997年~:JホラーVer.2。

・場所や時空をモチーフとし、「ここは一体どこだ?」と知ろうとすることから、怖いことに巻き込まれ、狂うことで救われる。

・「歪んだ街の歪んだ家」。そこには人間関係がなく、空間だけが「物を言う」。

・「シンクロが起きない法外」。「社会の外」に虚空が拡がる。「外を忘れろ」。

・鏡が何を映さなくてもそこに存在する事実におののく。「忘れられた者」を映さず、むしろ鏡にいつも「見られている」こと、知らない時もかがみんが何かを「見ている」ことに、注意が払われる=鏡は「脱人間中心主義」の象徴=アニミズム的な体験(ルートヴィヒ・ピンスワンガーを参照)。

・「僕らが見ていなくてもそこにあり続けて、何かを見ているモノたち」に開かれた感受性が「存在論的な感受性」。「人」ではなく「場所」が主役(J・ベアード・キャリコット『地球の洞察』参照)だとする「JホラーVer.2」。

・産業化や技術化で感情が劣化した人間が「人間中心主義」に頽落することで、蔑ろにした「場所」から復讐される。

 

〇「鏡の向こうに何かがいる(Ver.1)」「自分が知らないものを鏡が知る(Ver.2)との予感を抱きつつ「鏡のこちら側」に留まる構えが、汎システム化によって狂人化しないための処方箋になる=「なりきりbecoming=往相」と「なりすましpretnding=還相」の遣いわけ。

 

 

*1:新住民とは地元の何たるかを知らぬ住民のこと。60年代の団地化からあるが、「新住民化」という場合は新住民が多数派になることを言う。

*2:「一度目の存在論的転回」は、戦間期後期の全体主義化を背景に生じた「ハイデガーの総駆り立て論」