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yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

今年の5冊+α

2016年も終わろうとしている(けど仕事は終わらない…)。今年も多くの分野の本から多くのことを学んだ。そのなかでも特に印象に残っている5冊(順不同)。

①齋藤元紀・澤田直・渡名喜庸哲・西山雄二編『終わりなきデリダ

年末に出版されたデリダ本。デリダ好きにはたまらない一冊。文献案内も充実。とても参考になる。

終わりなきデリダ: ハイデガー、サルトル、レヴィナスとの対話

終わりなきデリダ: ハイデガー、サルトル、レヴィナスとの対話

 

山本圭『不審者のデモクラシー』
これからの政治主体を考える上で重要な一冊。デモクラシーの制度的側面を重視する人にこそ読んでほしい。

吉野作造講義録研究会『吉野作造政治史講義 矢内原忠雄赤松克麿・岡義武ノート』

現代政治を観察するうえで、本書のような「政治史」は重要になる。何よりも、このようの本が出版されること自体が嬉しい。

吉野作造政治史講義――矢内原忠雄・赤松克麿・岡義武ノート
 

④伊藤正次・出雲明子・手塚洋輔『はじめての行政学

行政学の教科書と言えば、西尾勝行政学』だったけど、これからは本書になるかも。行政職員も必読。 

はじめての行政学 (有斐閣ストゥディア)

はじめての行政学 (有斐閣ストゥディア)

 

⑤松田宏一郎『擬制の論理 自由の不安』

個人的に、「擬制」は最近のキーワード。その文脈で読んだのが本書。とても面白く、勉強になった一冊。

擬制の論理 自由の不安:近代日本政治思想論

擬制の論理 自由の不安:近代日本政治思想論

 

 

その他、この5冊以外で印象に残っている本。

⑥蝶名林亮『倫理学は科学になれるのか』

本書は政治哲学や法哲学に関心がある人にも読んでほしい。

高橋陽一郎『藝術としての哲学』
ショーペンハウアー哲学だけではなく、哲学そのものについて考えさせられる一冊。
藤田直哉編・著『地域アート 美学/制度/日本』
地域アートや地域活性化に関心がある人/携わるにとって必読の一冊。美学の勉強にもなった。
飯田泰之・木下斉・入山章栄・林直樹・熊谷俊人地域再生の失敗学』
これも地域活性化に携わる人は必読。個人的には行政職員に読んでほしい。
⑩木下斉『地方創生大全』
これも行政職員に読んでほしい一冊。本書の内容を受け止めることができる人を増やさないといけない。
⑪吉田徹『「野党」論』
「(今の)野党は駄目だ」というのは事実かもしれないけど、そのような状況においてこそ、野党に対する我々の認識を深めることが重要。
⑫遠藤乾『欧州複合危機』
大きな問題に直面したときにこそ、冷静な分析が必要である。また、具体的な問題に学問が成しうることを本書は示してくれる。
⑬カンタン・メイヤスー『有限性の後で』
専門的なことはわからない。でも、世界について考える楽しさを教えてくれる一冊。
⑭村井則夫『人文学の可能性』
人文学について様々な議論が飛び交っている(いた)けど、とりあえずは本書を読めと言いたい。
⑮小島秀信『伝統主義と文明社会』
保守や秩序を語る上で必読。本書を読んで、エドマンド・バークはもっと注目されるべきだと思った。
⑯横濱竜也『遵法責務論』
「不正な法」とどのように向き合うか、この事はもっと深く、真剣に考えるべき問題。
⑰富永京子『社会運動のサブカルチャー化』
この一冊を読むだけで、社会運動に対する認識が変わる。社会運動に批判的な人に読んでほしい。
⑱平井靖史・藤田尚志・安孫子信編『ベルクソン物質と記憶』を解剖する』
ベルクソン認知科学や分析形而上学とが絡み合う興奮。刺激的。
⑲堤直規『公務員1年目の教科書』
公務員一年目の職員はもちろん、中堅・ベテラン職員も読むべし。

山本貴光『「百学連環」を読む』

本を読む楽しさ、特に精読することの快楽がわかる一冊。

抵抗の精神について

読書 経済学

小泉信三『平生の心がけ』を読んでいて、興味深い箇所を発見。

平生の心がけ (講談社学術文庫)

平生の心がけ (講談社学術文庫)

 

本当にその通りと思うところなので、長くなるけど引用しておく。

嘗て軍部が国を誤ったという。たしかに一部将校等の分を忘れた言動には、目に余るものがあった。けれども、軍人という軍人が、皆な心からそれに同調していた訳ではない。中にはそれを苦が苦がしい越権の行動だと思っていたものも、確かにあったと思う。けれども、当時の勢いとして、自ら軍部内にいて、軍人の分際と反省とを説き、同僚の行為の僭越を指摘することよりも、声を合わせて政党の腐敗を罵り、国民の無自覚無気力を鳴らす方が、軍人としては遥かに容易かった。人々はその易きに就いて、そうして心着けば、何時か、国は悲運に導かれていたのである。

大学の学長または教授等が大学の自治を唱える。固より理由のあることである。けれども、大学の学長や教授等にとって、部外に対して大学の自治権を主張することよりも、内に向って大学の責任を論じ、大学教授等が果たして遺憾なくその職責を行っているか否かを問う方が、遥かに難く、遥かに多くの抵抗力を要することを、忘れてはならぬ。ここでも多くの場合、人々は難きを避け、外に向っての抵抗の形で、内に向っての抵抗精神の欠乏もしくは虚弱を露呈する。少なくとも彼等は、軍部内における自己批判の無力を難ずることは出来ない筈である。自己批判の必要なる一事は彼れも此れも変わりはない。それの行われないことは、或いは行われも不充分であることは、-均しく抵抗力の欠如を意味するものである。

同様の例は、なお幾つでも累ねられる。文筆家が集まって、出版物に対する取締り、または判決を批判するとする。一座のものは、取締官吏や検事判事の無理解を難ずるにきまっている。そうして、それも理由のないことではない。けれども、考えなければならぬ。かかる場合に一座の空気に逆らって、取締りや判決に正当の理由があると、言明することは、たといそう信じても、それは仲々容易いことではない。勿論私は、一斉に取締りや判決を非難する人々が、皆な悉く雷同の易きに就いているとは言わない。彼等の或る者は、たしかに真剣にそう信じ、たとい自分が、一人になってもその説を枉げないであろう。けれども、また他の或る者は、判決必ずしも無理ならずと思いつつも、同業同僚の間に異を樹てることを好まず、勢いに押され、長い物に巻かれて、どうかすると、却って仲間の者よりも一層声を大にして、当局の横暴愚劣を罵っているかも知れない。この点文筆家の或る者の心理が、前記軍部内の或る者のそれと必ず異うとは、断定すべき理由がない。この場合、抗議の大声は、必ずしも抵抗精神の旺盛を示さず、却ってその反対であるかも知れないのである。(157-8) 

人が「外部」に向って批判している様子を見ても、そこに抵抗精神を感じることができないことがあるのは、小泉が指摘しているように、自己批判が欠如しているからであろう。特に、小泉が取り上げている教授や文筆家にとって「批判」は重要なものであるから、この「内部/外部」の視座に対して敏感でなければならない。

抵抗や抗議が「力」を持たないのは、抵抗・抗議対象である「外部」が横暴愚劣だからではなく、自己批判が欠如しているからかもしれない、という懐疑の姿勢が、今は必要となっているのかもしれない。

10月と言えば…予算編成

読書 地方自治

10月になれば、おそらくそのうち予算編成方針の通知ががあって、予算要求作業が本格化する。それに向けて、昨年の予算要求時期には出版されていなかった、吉田博・小島卓弥『予算要求の実務-実践から新たな仕組みづくりまで』を読んだ。

自治体 予算要求の実務

自治体 予算要求の実務

 

本書では、様々な自治体の予算編成方針や見積要領が随所で引用されており、他の自治体の考え方を知ることができて参考になる。

また、財政当局とのやりとりについて具体的な指摘と対応の例が取り上げられており(102-6)、これも勉強になるし、事前に読んでおくことで、より効率的に資料を準備することができると思う。

あと、第2章の「予算をめぐる論点」で語られている次の点に激しく同意。

歳出予算とは、款、項別の金額であるので、個別の予算事業として整理されるものだけではなく、その項の予算額の総体によって、政策目標の実現を図ることが原点になる。(25) 

これまで、(歳出)予算は 款・項であり、その金額が議決対象であり、各事業単位ではないことを説明してきた。行政は、最少の経費で最大の効果を目指すものであるので、投入される資金ができるだけ有効に使われることが大切である。事業は大くくりの方がより執行の弾力性を高めるとみられる。事業の性格にもよるが、事業レベルでの管理の壁は高過ぎない方がよいだろう。(26-7)

この「執行の弾力性」という観点で財政部局と争ったことがあった。様々な資料を準備して、法的な観点、事業の「枠」という観点、執行の弾力性という観点から色々と説明してもなかなか納得してもらえず苦労した記憶がある。この件を通じて、知識や正しさだけでは問題を解決することができず、相手方の資質や性格を見極めて交渉することの重要さを再認識した。

話しが逸れてしまったが、本書は予算要求において必読の一冊。そして、予算編成方針が通知された後は、その方針を熟読し、予算要求事務をタイトなスケジュールで進めなくてはいけないので、要求部局の職員は今この時期にこそ本書を読むべきであろう。

再帰化する社会でデモクラシーを擁護すること

政治学 読書

宇野重規田村哲樹・山崎望『デモクラシーの擁護-再帰化する現代社会で』の「共同綱領-デモクラシーの擁護に向けて」を読んだ。

デモクラシーの擁護 ―再帰化する現代社会で―

デモクラシーの擁護 ―再帰化する現代社会で―

 

本書は再帰性*1に着目しつつ、デモクラシーを擁護するという観点から書かれたものである。今回読んだ第一章は、 宇野重規田村哲樹・山崎望による共同綱領であり、ギデンズやベックを取り上げて再帰的近代化の特徴を述べ、それがもたらす困難を指摘し、ネオ・ナショナリズムリベラリズムではなく、デモクラシーにその困難を解決する可能性を見出している。

本書で指摘されている再帰的近代化がもたらす諸困難とは、①個人の負担増大、②私的問題と公的問題の媒介の消失、③異なる価値観の衝突、という三点である。

個人的に特に興味深く思ったのは、個人の負担増大という困難に対して、デモクラシーがその負担軽減を可能にすると指摘されている点である(32-4)。デモクラシーによる負担軽減は、①諸個人の判断・決定の基盤となるものがデモクラシーを通じて集合的に形成されること、②判断・決定そのものがデモクラシーによって集合的になされること、という二つの要素からなる。そして、ここでのデモクラシーとは、「さまざまな他者との対話を通じて自己を再帰的に捉え直していくような」「熟議民主主義」である(33)とされる。

しかし、著者も指摘しているように*2、まさにこのようなデモクラシーにこそ、個人は負担を感じるのではないか、個人の負担増大に注目する以上、この点をもっと掘り下げるべきだと思う*3

また、リベラリズム自由主義)とデモクラシーの緊張関係について議論されている箇所も興味深かった。次のような指摘は、政治哲学や政治理論に関心がある人が見落としがちな点であり、重要な指摘である。

自由主義とデモクラシーの関係を歴史的に振り返ったとき、明らかになるのは、両者の関係を決定するのが、単なる論理的な整合性ではないということである。重要なのは、その時代ごとの状況、とくにデモクラシーの発展の度合い、デモクラシーの統治能力に対する信頼、さらには経済状況、社会的安定、政府の権限の大小などであり、これらが両者の関係を決定する際の大きな規定要因になったことは間違いない。(64)

これは学問における現実政治・社会との「距離」という視座からも重要な指摘。現実を切り離して「論理整合性」を絶対化してはいけないし、現実に近づきすぎて学問的立ち位置を失ってもいけないことを再認識。

そして、リベラリズムとデモクラシーとの関係について、異なる価値観の衝突の観点から議論されている箇所は重要。

リベラリズムにおいて重視されるのは、これら多元的な世界観・価値観の共存の条件であり、個々の世界観・価値観はとりあえず変わらないものと前提される。重要なのは、ある世界観・価値観が他の世界観・価値観を否定・抑圧しないことであり、そのために個々の世界観・価値観から独立した正義が要請される。しかしながら、このようなリベラリズムに対し、わたしたちが目指すデモクラシーは、対話と交渉を通じ、個別の世界観・価値観自体が変化していく可能性を重視する。もちろん、この可能性を過剰に評価することには慎重であるべきである。とはいえ、時間のなかで個人や集団は相互接触を通じて変化しうるという動的な可能性を考慮に入れることなしに、再帰的近代化の進む社会における秩序を構想することは難しいであろう。リベラリズムによる静的な共存の条件の模索に対し、デモクラシーによるより動的な対話と交渉の可能性を重視する所以である。(74) 

動的な可能性を考慮に入れることは重要であるが、個人的には「静的な共存の条件」や安定性を重視している(そして、これらこそが個人の負担軽減につながると考えている)から、私の価値はデモクラシーよりリベラリズムにあるのかもしれない。

今後、デモクラシーだけではなく、リベラリズムについても要勉強。

*1:再帰性」は、「ギデンズの定義に従い、「社会の実際の営みが、まさしくその営みに関して、新たに得た情報によってつねに吟味、改善され、その結果、その営み自体の特性を本質的に変えていく」こと」と定義されている(19)。

*2:「この種のデモクラシーに関わること自体が、現代社会に生きる人々にとって、ある種の負担感をもたらす可能性はある。」(34)

*3:この点を議論するにあたり、山本圭『不審者のデモクラシー』は注目すべき一冊であり、デモや運動を含め、これからのデモクラシーを語るうえでの必読書と言える。

民主主義と偶有性

政治学 社会学 読書

大澤真幸『現実の向こう』の第1章の中にある「民主主義はどういう政治制度か」の箇所をメモ。

大澤は民主主義の特徴を「どのような敵対関係をも-変形させた上で-受け容れるところ」にあると指摘し、その例としてエルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフの議論を紹介している(77)。しかし、大澤はムフとラクラウについて、「美しく見えるけれども、はっきりいって欺瞞」であり、「何か根本的な不徹底さがある」と批判している(78)。その理由は、民主主義はどんな敵対者も存在を認めるといっているが、実際には民主主義を否定する人を認めることはできず、その点において根本的な排除を前提にしているからである。

また、大澤は、民主主義だけが権力の根拠のなさを隠蔽しない=権力行使の偶有性を自覚しているというサイモン・クリッチリーの説を、不徹底であると次のように批判している。

民主主義以外の政体が権力行使の偶然性=偶有性を隠蔽していることは確かですが民主主義にも同じような隠蔽がある。ただ、民主主義にあっての隠蔽の仕方が、一段巧妙だということだけだと思うのです。(80) 

そして、民主主義による権力の無根拠性・偶有性の自覚には「アイロニカルな没入」(81)と同じ構造があるとして、次のように指摘する。

結局その偶有性の自覚は、行動によって否認されている、と僕は思う。偶有性を自覚するということは、必然的に合意が確保できるような普遍的な正義を断念することですね。民主主義はこのことについて、いわば頭ではわかっているけれども、実際の行動では、その認識を裏切っている。(83)*1

そして、このような民主主義が機能するために必要な前提を大澤は説明しており、ここが民主主義を考察するうえで非常に重要となる。

討議に基づく民主主義が可能であるためには、(任意の)現在においては不確定な、未来に判明するはずの普遍的な正義の存在を前提にしなくてはならない。つまり、討議をしているとき、僕たちは、どこかに、どこか遠い未来に、必然的に合意するはずの普遍的な正義が存在しているかのように振る舞っていることになるのです。

だから、民主主義的な討議が打ち出す結論は、常に、偶有的であることを人々は知っていますが、その偶有的な結論を人が受け入れるのは、-今は判明していないという形で-消極的・否定的に想定されている必然的で普遍的な正義の存在可能性が、あらかじめ前提にされているからです。「偶有的であることは知っている、けれども、必然的な結論があるかのように振る舞う」というアイロニカルな没入の形式がここにある。(84) 

 

多数決で多数派の意見が集合的な意思の表明になるのは、結局、相対的に多くの人が支持している意見が、原理的にはすべての人が支持するはずの普遍的な判断を、暫定的に代理していると見なされる場合です。したがって、多数決成り立つためには、普遍的な判断の存在が-その内容に関して未定なままに-想定されていなくはならないのです。とすれば、ここには、討論の場合と同様の「アイロニカルな没入」の形式があると言わなくてはならない。(85)

 

民主主義を採用する以上は、普遍的な正義が不在である-したがって決定は常に偶有的である-という前提から出発しているように見えますが、その実、伝統的な民主主義のふたつの方法(「討議」「討論」と「多数決」「投票」)は 、ともに、そうした正義が-その内容についてはいつまでも未定ですが-存在していることを前提にして、機能するわけです。(85-6)

 民主主義の前提や理論と実践を考える上で大変参考になる。

*1:本書で紹介されているデリダハーバーマスの論争にも同じような構造がみられる。「ふたりとも「他者の尊重」が基本線になっているのは同じなのに、身動きとれない論争状態になっている。したがって、結局は、デリダ風のラディカルな主張も、実践的には、ハーバーマスの線にまで穏健なものにならざるをえない。その結果、本来は、ライバルであった二人は、最近では手を組むまでに至ったのです。」(67)