ある研究会でヘーゲル『精神現象学』を読むことになったので、最近ヘーゲル関連の著作を読むようにしている。そして、「緒論(Einleitung)」を読み終えたところで、平凡社ライブラリー版『精神現象学』の「緒論」の本文(112-113)や末尾(119)で紹介されている、ハイデガーの「ヘーゲルの経験概念」を読みたいと思うようになった。 ヘーゲル『精神現象学』と、ハイデガー「ヘーゲルの経験概念」を相互に読み合うことによって、両者を少しずつでも理解できるようになれたらと思う。
ハイデガー「ヘーゲルの経験概念」は、「緒論」を段落ごとに解説されているから、論文の構造は非常にわかりやすい。とりあえず、第一段落の解説で気になった箇所をメモ。
ヘーゲルは単に付随的に、つまり副文のなかに仕舞いこむようにして、次のことを言っている。すなわち、絶対的なものはすでにそれ自体においてもそれ自体としても我々の許に有り、我々の許に有ろうと欲する、と。この我々の許に有ること(パルーシアπαρουσια〔臨在〕)とは、すでにそれ自身において、真理の光 、つまり絶対的なものそれ自身が、我々を照らす仕方なのである。(『ハイデッガー全集 第5巻 杣道』152-153)
哲学書を読むトレーニングをしたことも無いし、読み方を教わったことも無い僕にとって、副文に注目するということ自体がとても興味深いと思った。ちなみに、『精神現象学』では次のように書かれている。
仮りに、絶対者は、少しも変えられないままで、道具を通じて、ちょうどモチ竿で鳥がとらえられるように、われわれのところに、とにかく少しでも近よせられるのだとしても、絶対者がそのままですでにわれわれのところに在り、また在ろうとしているのでなければ、おそらくそういう詭計は、絶対者から無視されることになろう。(『精神現象学』101-102)
確かに言っている…。以前に読んでいた時は、線引きもしていなかったな。あと、この箇所の「an und für sich bei uns」というドイツ語表現も要チェック。
「ヘーゲルの経験概念」に戻ると、「臨在」とは、「我々の許に現前すること」であり、それは「絶対的なものそれ自体の成分である」とハイデガーは指摘する(153)。ここで気になったのが、「パルーシア」という語である。そこで、手元にあった、阿部将伸『存在とロゴス』をパラパラ。
存在とロゴス――初期ハイデガーにおけるアリストテレス解釈 (シリーズ・古典転生10)
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事項索引でパルーシアを探すと、「パルーシアー(現在性・現前性としての)」と、「パルーシアー(主の再臨としての)」という項目があった。今回は前者の意味で取り上げられている箇所をチェック。
ハイデガーはコスモスを存在者全体としての世界と解している。「世界そのもののうちに存在するすべてのものがコスモス(κόσμος)である。コスモスとしての存在者は、つねにすでに現に在るものの現前性によって、つまりパルーシアー (παρουσια)によって性格づけられている」(GA18,266-267)。(『存在とロゴス』230)
「ウーシアーはパルーシアー、≪現在在ること≫の短縮形である」(GA18,33)。(同234)
ハイデガーは、パルーシアー(παρουσια:現在・現前性)、エイドス(ειδοs:形相)、テロス(τέλος:終わり)、ペラス(πέρας:限界・究極)といった一連の概念を、ウーシアーの述語的意味(現在性・出来上がって在ること)に関わる存在論的規定と見なすのである(本書第三章註41~47参照)。(同248)
「ウーシアー」という概念については、『存在とロゴス』の「第二章 日常用語としてのウーシアーの意味射程」で詳しく論じられているので、また機会を設けてしっかりと読むことにしよう。
ところで、ハイデガーは、このパルーシア(臨在)という概念に注目して次のように語る。
実際のところヘーゲルにとって重要なのは、我々の許に臨在している絶対的なものを指摘するということである。この指摘によって我々は、我々がすでにその中に居る絶対的なものへの関わり合いの内に、ことさらに入り込むようにと指示されるだけである。(『ハイデッガー全集 第5巻 杣道』153)
「緒論」を最初に読んだ時には、パルーシア・現前性・現在性に注目して読むことができていなかったので、研究会で議論された内容も参考にしながら、もう一度ゆっくりと読み直していきたい。