yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

民主主義と偶有性

大澤真幸『現実の向こう』の第1章の中にある「民主主義はどういう政治制度か」の箇所をメモ。

大澤は民主主義の特徴を「どのような敵対関係をも-変形させた上で-受け容れるところ」にあると指摘し、その例としてエルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフの議論を紹介している(77)。しかし、大澤はムフとラクラウについて、「美しく見えるけれども、はっきりいって欺瞞」であり、「何か根本的な不徹底さがある」と批判している(78)。その理由は、民主主義はどんな敵対者も存在を認めるといっているが、実際には民主主義を否定する人を認めることはできず、その点において根本的な排除を前提にしているからである。

また、大澤は、民主主義だけが権力の根拠のなさを隠蔽しない=権力行使の偶有性を自覚しているというサイモン・クリッチリーの説を、不徹底であると次のように批判している。

民主主義以外の政体が権力行使の偶然性=偶有性を隠蔽していることは確かですが民主主義にも同じような隠蔽がある。ただ、民主主義にあっての隠蔽の仕方が、一段巧妙だということだけだと思うのです。(80) 

そして、民主主義による権力の無根拠性・偶有性の自覚には「アイロニカルな没入」(81)と同じ構造があるとして、次のように指摘する。

結局その偶有性の自覚は、行動によって否認されている、と僕は思う。偶有性を自覚するということは、必然的に合意が確保できるような普遍的な正義を断念することですね。民主主義はこのことについて、いわば頭ではわかっているけれども、実際の行動では、その認識を裏切っている。(83)*1

そして、このような民主主義が機能するために必要な前提を大澤は説明しており、ここが民主主義を考察するうえで非常に重要となる。

討議に基づく民主主義が可能であるためには、(任意の)現在においては不確定な、未来に判明するはずの普遍的な正義の存在を前提にしなくてはならない。つまり、討議をしているとき、僕たちは、どこかに、どこか遠い未来に、必然的に合意するはずの普遍的な正義が存在しているかのように振る舞っていることになるのです。

だから、民主主義的な討議が打ち出す結論は、常に、偶有的であることを人々は知っていますが、その偶有的な結論を人が受け入れるのは、-今は判明していないという形で-消極的・否定的に想定されている必然的で普遍的な正義の存在可能性が、あらかじめ前提にされているからです。「偶有的であることは知っている、けれども、必然的な結論があるかのように振る舞う」というアイロニカルな没入の形式がここにある。(84) 

 

多数決で多数派の意見が集合的な意思の表明になるのは、結局、相対的に多くの人が支持している意見が、原理的にはすべての人が支持するはずの普遍的な判断を、暫定的に代理していると見なされる場合です。したがって、多数決成り立つためには、普遍的な判断の存在が-その内容に関して未定なままに-想定されていなくはならないのです。とすれば、ここには、討論の場合と同様の「アイロニカルな没入」の形式があると言わなくてはならない。(85)

 

民主主義を採用する以上は、普遍的な正義が不在である-したがって決定は常に偶有的である-という前提から出発しているように見えますが、その実、伝統的な民主主義のふたつの方法(「討議」「討論」と「多数決」「投票」)は 、ともに、そうした正義が-その内容についてはいつまでも未定ですが-存在していることを前提にして、機能するわけです。(85-6)

 民主主義の前提や理論と実践を考える上で大変参考になる。

*1:本書で紹介されているデリダハーバーマスの論争にも同じような構造がみられる。「ふたりとも「他者の尊重」が基本線になっているのは同じなのに、身動きとれない論争状態になっている。したがって、結局は、デリダ風のラディカルな主張も、実践的には、ハーバーマスの線にまで穏健なものにならざるをえない。その結果、本来は、ライバルであった二人は、最近では手を組むまでに至ったのです。」(67)

脱構築と政治的実践、そして否定神学的共同体

東浩紀存在論的、郵便的』を再読したところ、今の自分にとって大変興味深い箇所があったのでメモ。

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

 

 具体的には、第二章の「(1)バーバラ・ジョンソン「参照の枠組み」について」と「(2)外傷traumatismeとユダヤ性」(102-110)。以下、その中でも特に興味深った箇所を引用。

ゲーデル脱構築は完全に形式的である。したがってそれは具体的応用に際しては必ず、ある飛躍、九〇年代のデリダによる神秘化された表現を借りれば、「不可能なものへの無限の責任」を要求する。しかしここで警戒すべきは、理論的に支えられないその飛躍の「穴」を埋めるためにこそ、素朴なイデオロギー、主体や共同体の経験主義的な肯定が再来しうることである。したがってジョンソンの問題は、脱構築と政治的実践の接合が陥りがちな陥穽を範例的に示している。脱構築アイデンティティ・ポリテックス、否定神学と経験論はくるりと反転して融合するのだ。実際にいまの日本でも、ドゥルーズデリダなどの超越論的思考に深い影響をうけたはずの論者たちが、しばしば政治的・社会的批判の文脈で単純な経験論に回帰している。(104) 

 

いかなる同一性ももたず、つねに他者に開かれていること。しかしそれは言われるほど単純な話ではない。現実には、同一性の欠如がむしろ同一性を強化することがあるからだ。(108) 

 

そもそも「メシア的なもの」とはデリダにとって、「来るべき民主主義」のラディカルな異種混合性…を表す重要な隠喩=概念だった。しかし他者へのその開放性が、実はある外傷、実証的には語れない否定的経験によってのみ支えられるものだとしたら?そのとき「メシア的なもの」の効果は突如反転し、きわめて強力な否定的同一性の論理となって共同体を再組織化することになるだろう。つまり共同体が異種混合的であること、その成員に何も実体的な共同性がないことが、逆に人々を排他的に結びつけることがありうるのだ。私たちはそれを「否定神学的共同体」とでも呼ぶことができる。(109) 

東浩紀氏が指摘したこれらの問題点が、理論的にも実践的にも表出したのがここ数年の動きだと思う。「単純な経験路への回帰」、「同一性の欠如による同一性の強化」、「共同性がないことによる排他的結合」 、我々はこれらの問題に対して敏感になる必要がある。今はあまりにも素朴なんだと思う。「素朴であることがよいことだ」という考えもあるのかもしれないけど…。

湯浅誠「社会運動の立ち位置」を読む

久しぶりに、湯浅誠「社会運動の立ち位置-議会制民主主義の危機において」(『世界2012.3月号』所収』を読んだ。本論文は、社会運動論としてだけではなく、「政治」そのものを考える上でも非常に重要。今回再読して注目したのが「固定化」「瞬間」という概念である。湯浅氏は次のように語っている。

政治的領域の特徴は決定にあり、調整過程の終結にある。「こっち側」(社会的領域)と「あっち側」(政治的領域)を貫く政治的・社会的力関係総体の終りのない調整過程のある時点で、その力関係を切り取り、固定化するのが政治的決定である。もちろん、決定された瞬間から、その決定を政治的・社会的力関係総体の一要素に織り込んで調整過程は連綿と続いていくので、決定は常に暫時的なものでしかありえない。(44) 

 

 政策や制度は、重層的に変化する力関係をある瞬間で切り取り、暫時的であれ固定化するものだから、内容と同等あるいはそれ以上にタイミングが重視される。政治家や官僚の力量は、ある政治的・社会的力関係を長期的または瞬発的に自ら形成しつつ、同時に外的にも活用(便乗)しながら、優勢と劣勢が目まぐるしく入れ替わる複雑な調整過程の中で、テコ入れする課題が比較的優位に立った瞬間に切り取って固定化する、その「瞬間芸」の技量によってはかられる。(47)

 このような「固定化」や「瞬間」を忌避する姿勢が、民主主義の危機の要因の一つではないか。そして、政治における「固定化」を忌避する姿勢は、次のような形で自らが固定化していることを忘却させる。

「政権に期待し、接近したのが間違いだったのであり、社会的な働きかけを強めるべき」という意見、社会運動は原点回帰すべきといった主張をよく耳にする。社会運動にとって社会的な働きかけが重要なのは言うまでもないが、問題はこのような主張がしばしば「こっち側」と「あっち側」という、繰り返し述べてきた役割区分の固定化への回帰を志向している点だ。(49) 

 このような状況において、我々はどうするべきか。ここでも湯浅誠氏の次の言葉がヒントとなる。

社会運動が採るべき方向性は、バッシング競争で負けないためにより気の利いたワンフレーズを探すことではなく、許容量を広く取って理解と共感を広げていくために、相手に反応して自分を変化させ続けていくこと、政治的・社会的な調整と交渉に主体的にコミットすること、そして自分という存在の社会性より磨きをかけていくことではないかと思います。(湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』187) 

社会運動に携わる人間に限らず、先述した「固定化」や「瞬間」、そしてこの「変化」に対する理解を深めていくことが重要である。

そして、理解を深めるためにこそ、ヘーゲルを引き続き読んでいきたいとなんとなく思った。そのためにも、日々の仕事をがんばろ。

丸山眞男「政治嫌悪・無関心と独裁政治」を読む

昨日に引き続き、丸山眞男を読む。今日は「政治嫌悪・無関心と独裁政治」。 

第一巻 1933―1949 (丸山眞男集 別集)
 

本論考で興味深い点は、「政治に対して何か本能的な嫌悪を感ずる人間こそ、もっとも政治を担当するにふさわしい人間である」(297)と指摘していることである。そして、政治的なものに対する抵抗を感ずる精神を持つ人間が、権力の自己抑制を知っていると丸山は語っている。

私は政治家ではないが、行政職員として働くうえで、この丸山の考えに同意する。政治や行政に対する嫌悪感を持たない人間が政治家や公務員になると、権力に酔っぱらう可能性が高い。「政治家になりたい」「公務員になりたい」という「やる気」は大事だけど、それが幸福な政治・行政をもたらすとは限らない、このことを日々感じる。

あと、この論考で丸山が哲学や宗教「だけ」を研究することを批判している箇所が面白い。

信州における哲学や宗教だけを研究する態度もまた感心できない。信州人が哲学的であることはレベルの高いことを表現しているが、他方性格の弱さを表現している。究極的な人生の目的をプロセスを通らずして絶対をつかもうとするもので、日常的な生活環境を打開していこうとする能力の無さ、地味な努力を軽視する態度である。無媒介に絶対を得んとする哲学はない。日常の生活環境を軽視するところに、支配社会的不正を援助することになる。忍従の美しさは忍従を強いているものをも許している。これは社会的不正を許容するもので、最悪の政治をも許容するものである。(303)

哲学や宗教を主に研究している人は、この丸山の批判をどのように受け止めるのか気になるところ。

なお、この論考は、長野県で行われた講演記録のようだが、本講演は次のように終わる。

昨日よりは今日、というプロセスに善悪の判断が生まれるのである。かかる地盤の上に民主主義は正常に発達するもので、独裁者やボスは天から下ってくるものではなく、上述の雰囲気の中から生ずるものである。(305)

この「昨日よりは今日」という「プロセス」、悪をも受け止めつつ、より善いものへと進もうとする精神、私もこの精神を持って活動していきたい。

丸山眞男「民主主義政治と制度」を読む

民主主義について整理するために、丸山眞男「民主主義政治と制度」(『丸山眞男集別集第一巻』所収)を読んだ。

第一巻 1933―1949 (丸山眞男集 別集)
 

私は、民主主義(デモクラシー)は「制度を求める運動の中にある」と考えるよりも、「制度」や「手続き」的側面で考えているので、本論考のタイトルに関心をもった。(デモクラシー理解をめぐる考え方の違いについては、杉田敦『デモクラシーの論じ方』が参考になる。)

本論考の興味深い点は、機械文明・技術文明の高度化により、治者と被治者の距離が接近しており、大衆が直接に政治的圧力を政府に加えることが可能となったことを指摘していることである。近年、「政治の遠さ」「政治との距離感」が問題視されていたけど、丸山の論考は「本当にそうなのか?」と呼びかけているように思える。そして、ここで思い出したのが、柄谷行人「内面への道と外界への道」の中の言葉である。

危機はわれわれが「現実」に背を向けてしまっていることではない。危機はむしろ、われわれが過剰なほど「現実」に接触していながら、その底で致命的なまでに「非現実感」に蝕まれていることだ。(柄谷行人『畏怖する人間』329)

この柄谷の言葉を借りれば、民主主義の危機は、我々が過剰なほど「政治」に接触していながら「非政治感」に蝕まれていることではないのか、と。ならば、丸山が指摘しているように、民主主義の危機を乗り越えるためには、「日常生活を通じて不断に政治的関心を喚起すること」(『丸山眞男集別集第一巻』317)が大事で、それを可能とするために「秩序と規律とを与える」(同316)=「制度化する」ことこそが重要になるであろう。

もちろん、民主主義には次のような側面はある。

僕はむしろ、デモクラシーを発見の過程と見ているわけだ。さまざまな意見がぶつかり合う中で、新しいものが生まれる過程、それがデモクラシーだ。(杉田敦『デモクラシーの論じ方』31) 

しかし、丸山も指摘しているように、この側面においても「一層高度の政治的訓練が必要」であり、「さもなければ大衆の直接民主政的傾向はたんなる群衆(モッブ)の騒乱にすぎなくなる」(『丸山眞男集別集第一巻』317)。

以上のように私は考えているが、近年のデモ・社会運動についても勉強し、民主主義についての理解を深めていきたい。