yamachanのメモ

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伊藤潤一郎『「誰でもよいあなたへ」-投壜通信』

「特定の二人称以外に言葉が流れつく先は、誰でもよい誰かだけでなく、誰でもよいあなたでもありうるのではないか」(71)-タイトルにもなっているこの「誰でもよいあなた」という「不定の二人称」について、多数の固有名と日常の出来事を折り込みながら言葉にする試みである。「日常のモヤモヤを手がかりにするような哲学風エッセイ」(126)と思われるかもしれないが、本書はそのようなエッセイとは一線を画している。
では、本書の特異性とは何か。それは、「哲学風エッセイ」とは異なる「時間」が、テクストの中に流れていることである。例えば、「庭付きの言葉」のなかで、「ゆだねる」という時間のあり方について次のように語られている。

重要なのは「ゆだねる」という時間との関わり方である。それは、人間によるコントロールを制限したような時間のあり方だといってもよい。人間が庭に流れる時間をすべて支配し、そこに生きるものを管理するのではなく、別のところから風に乗って運ばれてきたり、鳥の糞のなかに入ってきたりした種が、偶然そこで芽吹くような余白をつねに残しておくのが「ゆだねる」という時間のあり方にほかならない。(26-7)

そして、この「ゆだねる」という時間は、「「あなた」を待ちながら」に出てくる「待ちながら」という言葉にも関係する。これらは、「意味の内部から意味の外部への通路を開こうという困難な企て」(16)であり、「新たな意味が生成してくるのを待つという時間のプロセス」(28)なのである。
また、「岸辺のアーカイヴ」では、「蔵書やアーカイヴとは潜勢力なのである」(43)として、現前・現在という尺度ではない、「いつか役に立つかもしれない(ということは、役に立たないかもしれない)という可能性」(36)が示されている。そして、「その可能性を信じることは、私自身の変容を肯定すること」(45)でもあると著者は述べる。
これら「誰でもよいあなたへ」が有する時間性を描く試みは、現代社会における「現在中心主義」(36)、「即効性」や「量的思考」(118)への批判にもなっている。「細切れになった時間」(97)を生きている私たちに対して著者はこう述べる。

岸辺で壜を拾い上げる者に必要なのは、私にしか聴き取れない声を聴き取る耳なのである。この耳をもってさえいれば、細切れにされた時間のなかで拾い上げた断片であっても、おのずと他の言葉へと結びつき、新たな意味が生まれていくことだろう。(108)

このようなやり取りのなかで立ち現れる共同体への「信」が宿った一冊である*1

 

*1:「「誰でもよいあなた」に言葉が届くことを信じて、このやり取りとも言えないようなやり取りをつづけていくときに立ち現れるものこそ、おそらくナンシーが「共同体」という言葉で語ろうとしていたことにちがいない」(伊藤潤一郎「誰でもよいあなたへ-ジャン=リュック・ナンシーからの投壜通信」『群像2021.11』271)