yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

政治学者という存在について

僕は、学部生の時は社会学専攻だったけど、政治学の講義も結構受講したし、政治学関連の本も大量に購入し、大量に読んでいる。それくらい政治学という学問が好きだ。

だからこそ、権丈善一氏が『年金、民主主義、経済学-再分配政策の政治経済学Ⅶ』で次のような言葉に対しては、真摯に向き合わなければいけないと思う。

…シンポジウムの中の山口二郎氏の「政権交代はやってみなければ分からなかった」という言葉を受けて、「そういう言葉は素人にしか許されない話。それではこれより、政治学者への批判を始めさせてもらいます」とお断りを入れて、最後には「2009年の政権交代時にかかわっていた政治学者たちを眺めながら思っていたことは、政策の細部を知らない政治学者たちの存在は有害だということ。実際のところ、政治学というのは要らないのではないかと思う」と発言する。(272) 

僕の周りの研究者でも、「政策の細部を知らない」、さらに言えば「細部を知らなくてもよい」という姿勢があった。「批判こそが大事」「細部にとらわれてはいけない」ということを言っていた。しかし、「細部を知ること」は「細部にとらわれること」とは異なる。さらに言えば、「思想や理論は細部にこそ宿る」。働きながら、そんなことを思うようになった。本論考は是非読んでほしい。

あと、本書に収録されている「第3講 政策技術学としての経済学を求めて」も政治学者必読の論考。総じて、本書はオススメの一冊。

年金、民主主義、経済学:再分配政策の政治経済学?

年金、民主主義、経済学:再分配政策の政治経済学?

読書会メモとお買いもの

今日は、牧野雅彦『精読アレント全体主義の起源』』の読書会に参加。

精読 アレント『全体主義の起源』 (講談社選書メチエ)

精読 アレント『全体主義の起源』 (講談社選書メチエ)

初めてお会いした方たちばかりだけど、色々とお話ができて勉強になったし、楽しかった。本当にありがとうございましたm(__)m

さて、予想外に盛り上がったのが、「忘却の穴」の議論。本書の中で、「後にアレント自身も「完全に忘却は不可能だ」と修正している」(213)と説明されているけど、どこだったかなーと思って調べてみると、『イェルサレムのアイヒマン』であった。

全体主義的支配が、善悪を問わず人間の一切の行為がそのなかに消滅してしまうような忘却の穴を設けようとしたことは事実である。しかし殺戮のすべての痕跡を除去しようとする…ナツィの一九四二年六月以後の別に浮かされたような試みが失敗を運命づけられていたと同じく、反対者たちを<言葉もなくひとに知られぬままに消滅させ>ようとするすべての努力も空しかったのである。忘却の穴などというものは存在しない。人間のすることはすべてそれほど完璧ではないのだ。何のことはない、世界には人間が多すぎるから、完全な忘却などというものはあり得ないのである。かならず誰か一人が生き残って見て来たことを語るだろう。従って何ものも<実際問題として無益>ではあり得ない、すくなくとも長い目で見れば。(180)

ちなみに、東浩紀存在論的、郵便的』の61頁においても、同様の箇所が参照されている。

そして、「忘却の穴」の話が盛り上がったために、購入して読み直そうと思った本が、高橋哲哉『記憶のエチカ-戦争・哲学・アウシュヴィッツ』。

記憶のエチカ――戦争・哲学・アウシュヴィッツ (岩波人文書セレクション)

記憶のエチカ――戦争・哲学・アウシュヴィッツ (岩波人文書セレクション)

あと、これは読書会の前に購入していたものだけど、市田良彦王寺賢太現代思想と政治ー資本主義・精神分析・哲学』も入手。市田良彦現代思想と政治をめぐる序」と、小泉義之ドゥルーズガタリにおける政治と哲学」しか読んでいないけど、両論文とも刺激的。特に、小泉氏がラクラウの議論を取り上げて、次のように指摘していることは興味深い。

ラクラウの論述は、特定の統一性と全体性のもとで、失敗や不発を繰り返してもある種の安心立命が成立する次第に拘泥しているのである。しかし、それこそが、国家に服することによって成立している事態ではないのか。(64)

このあたりのことは、ラクラウの著作もちゃんと読んで考えたいところ。

アレント読書会では、(基本的)人権やデモの話も出てきて盛り上がった。アレントを研究している人の中でも、その解釈や社会認識も異なっている点が(もちろん)あり、話を聞いているだけで大変興味深く、勉強になった。この刺激を力に、また明日から仕事をがんばろう。

森元斎×酒井隆史のトークイベント

1月16日にジュンク堂難波店で開催された、森元斎『具体性の哲学』刊行記念トークイベントに行ってきた。今回、このイベントに参加した理由は、ホワイトヘッドに関心があるからではなく、酒井隆史氏が対談者であったからだ。学生時代に、『自由論-〔現在性の系譜学〕』や『暴力の哲学』を読んで大きな影響を受けた。

自由論―現在性の系譜学

自由論―現在性の系譜学

暴力の哲学 (河出文庫)

暴力の哲学 (河出文庫)

個人的には、『自由論』の方が好きだけど、森氏も言っていたように『暴力の哲学』も素晴らしい本。これを文庫で読めるようになるなんて、今の学生はなんて幸せなんだろう。

森氏の話も大変面白かったけど、酒井氏の話も聞きたいと思って、質問コーナーでセキュリティの話も交えて質問したところ、大変うれしいことに、森氏の回答後に、酒井氏も回答してくれた。そこで出たキーワードが「知恵の共有・伝達」「知恵の共同体」。「知恵」の話は、『具体性の哲学』にも出てくるので、ちゃんと勉強しよう。そして、ホワイトヘッドの著作も読んでみよう。

お買いもの『市民的自由主義の復権』外

しばらくの間ブログから離れていたけど、本は何冊か購入していたので、忘れないうちにメモ。

まず、小山裕『市民的自由主義の復権-シュミットからルーマンへ』 。

市民的自由主義の復権: シュミットからルーマンへ

市民的自由主義の復権: シュミットからルーマンへ

久しぶりにルーマンの関連本を購入したんじゃないかな。あわせて、シュミットの著作も読んでいきたい。

次は、森元斎『具体性の哲学-ホワイトヘッドの知恵・生命・社会への思考』。

具体性の哲学 ホワイトヘッドの知恵・生命・社会への思考

具体性の哲学 ホワイトヘッドの知恵・生命・社会への思考

酒井隆史氏との刊行記念トークも面白かった。ホワイトヘッドは読んだことなかったけど、これを機に(いつか)読んでみよう。

三冊目は『すばる2016年2月号』。

すばる 2016年2月号

すばる 2016年2月号

柄谷行人「批評にできること」や、大澤信亮・浜崎洋介「生きることの批評」、杉田俊介藤田直哉・矢野利裕「ブックガイド 近代日本の文芸批評を知るための40冊」が特に楽しみ。

最後は、濱口桂一郎『働く女子の運命』。

働く女子の運命 (文春新書)

働く女子の運命 (文春新書)

濱口桂一郎氏は、『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ』や『日本の雇用と労働法』等を読んできたから楽しみ。

ブラック・ジャックの「カケ」について

ブラック・ジャック』に次のようなシーンがある。

BJ なぜそうやると助かるのか私にもわからないのだが……。だが私は、アフリカで5人の獅子面患者を手術したことがあります。この方法で三人はなおり、二人は死んだ!

医者 すると…カケだな?

BJ まあカケでしょう。

医者 患者の命を生かすか殺すかカケるとは許せんっ。

BJ じゃあ、あなたがたはカケてはいないのかっ。あなたがたはいつも患者がかならずなおると保障して治療をしているのですかっ。そんな保障のできるものは神しかいないっ。…われわれは神じゃない…人間なんだ!!…人間が人間のからだをなおすのは…カケるしかないでしょう……?(『BLACK JACK 6』秋田文庫.116-7) 

この発言を聞き、手術の様子を見た医者は次のように言う。

医者 ひとついえることは、あの男(=BJ)は信念を持ってやっとります。(同119)

また、『BLACK JACK 1』では、本間先生を手術したが死亡してしまったことについて「私は完全だった。ミスはなかったはずだっ」(109)と言うブラック・ジャックに対して、本間先生の亡霊は次のように語りかける。

人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね………………(同110)

以前、政治と哲学における「賭け」についてまとめたことがある。

SEALDs関連本の読書メモ - yamachanのメモ

この時にSEALDsが使う「賭け」という言葉に引っかかったけど、ブラック・ジャックや本間先生の言葉を読んで、その理由がわかった気がする。ブラック・ジャックは、自分の行為や選択の結果が不確定なことについて「カケ」と言っているのではなく、そもそも自分の行為や選択自体に「おこがましさ」を感じており、その「おこがましさ」があってこその「カケ」なのだと思う。そして、その「おこがましさ」とは、人間が対象を支配・制御・コントロールできるという考えに対する「おこがましさ」である。これが欠如しているところに「カケ」は存在しないのではないか。

もちろん、人間の行為や選択自体がおこがましいから「何もしない」のではない。「おこがましい」にも関わらず、そしてその行為や選択の結果が不確定であるにも関わらず、我々はそれぞれのやり方で行為・選択していくのである。このことを自覚して、自分なりのやり方で行為・選択し、その結果を引き受けていくこと、これこそが信念を持つことなのである。