ヘーゲル『精神現象学』を読んでいると、なぜかルーマンのことを考えてしまう。一方で、ルーマンは「とりわけカントに興味を持っていましたが、ヘーゲルとマルクスにはほとんど関心がありませんでしたね」とも語っている(『ルーマン、学問と自身を語る』141)。
- 作者: ニクラスルーマン,Niklas Luhmann,土方透,松戸行雄
- 出版社/メーカー: 新泉社
- 発売日: 1996/07
- メディア: 単行本
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そんななかで、大澤真幸『社会システムの生成』を読んでいると、ルーマンとヘーゲルとを比較している箇所があったのでメモ。
ルーマンの理論は…ヘーゲルの弁証法を裏返しているのである。ヘーゲルにおいては-少なくとも教科書的に解釈されたヘーゲルにおいては-、内的で必然的な「本質」が、つまり大文字の「理念」が、現象のうちに自分自身を外化する。現象自体は、偶有的なものである。したがって、ヘーゲルの弁証法に関しては、われわれは、こう解釈しなくてはならないことになる。さまざまな偶有的な現象という仮面をかぶっているのは、必然的な理念である、と。ルーマンのシステム理論では逆である。必然性を帯びて現れていることも、実は偶有的である。必然性こそが仮面であって、その実態は偶有性の方にある。ヘーゲルとルーマンの対照を次のように言ってもよいだろう。ヘーゲルにおいては、「必然性(本質)/偶有性(現象)」という対立自体を支えている様相は、必然性の方である(必然性={必然性/偶有性})。ルーマンにおいては逆に、「必然性/偶有性」という対立の地平は、偶有性である(偶有性={必然性/偶有性})。(26)
「ルーマンの理論はヘーゲルの弁証法を裏返している」から、ヘーゲルを読んでいるとルーマンを思い浮かべるのかもしれない。久しぶりに、たまりにたまっているルーマンの著作も読み直そう。