鳥越覚生『佇む傍観者の哲学―ショーペンハウアー救済論における無関心の研究―』合評会に参加。
全体討論で話題になった「意志」概念についてメモ。
ショーペンハウアー『意志と表象としての世界Ⅱ』
意志は、純粋にそれ自体として見れば、認識を欠いていて、盲目的で、抑制不可能な単なる衝動にすぎない。このような衝動は無機的な自然や植物的な自然とその諸法則のうちに、さらにはまたわれわれ自身の生活の植物的な部分(生殖と栄養にだけ関係する部分)のうちにも現れ出ていると思う。(248)
意志そのものは端的にいって自由で、まったく自分ひとりで自分を規定していくものであって、このような意志にとってはなにひとつ法則は存在しない(271)
ショーペンハウアー『意志と表象としての世界Ⅲ』
意志が自分の本質自体の認識に到達して、この認識のなかからの鎮静剤Quietivを獲得し、まさにそのことによってさまざまな動因Motivの影響から脱却するようになったときにはじめて、意志の自由が出現するにいたる(224)
鎌田康男・齋藤智志・高橋陽一郎・臼木悦生訳著『ショーペンハウアー哲学の再構築』
ショーペンハウアー『充足根拠律の四方向に分岐した根について』(第一版)
意志は、ただ直接の客観[身体]に対して、したがって外界に対してのみ因果性を有するだけではなく、認識主観に対しても因果性を有する。すなわち意志は、認識主観にかつて現在したことある表象を強制的にくり返すことができるし、そもそもあれこれのものに注意を向けたり、一連の任意の思想を呼び起こしたりすることも強制できるのである。(111)
鎌田康男「ミレニアムのショーペンハウアー」
ショーペンハウアーは、合理性の名のもとに苦を再生産する盲目な生への意志について語ることによって、自己構築する合理性自自身を非合理として暴露し、そのような意志の否定の可能性を示す。しかし意志の否定を勧めたり、ましてや命じることはない。ただ、意志の構造を明らかにすることによってのみ、その認識が意志の鎮静剤として働くことも可能になる、とショーペンハウアーは考える。(164)
カントは、意志を「表象に対応する対象を産出するか、あるいはそのように自己規定する能力」である、と説明しているが、ショーペンハウアーは、アウグスティヌスの『三位一体論』における意志論から後期フィヒテの『意識の事実』における注視(Attention)に至る伝統に従い、対象を産出する際に参照せられる(現実にはまだ存在しない)表象を産みだす想像力を意志の働きに組み入れることによって、この立場を徹底している。(167)
ショーペンハウアーが世界の自己認識としての哲学について語るとき、「概念による世界の本質の反復」とは、概念による自己創造と存在構築への意志の放棄を表現するものであり、世界の背後の実体を指示するものと解することはできない。(178)
ショーペンハウアー哲学において世界の根源である「意志」は、当初われわれの認識や行為の「制約」として要請されたものであり、その意味で「超越論的なもの」であって、決していかなる意味での「実体」であってもならなかったのである(225)
「決意」を通じ行為成立の契機として見出された「意志」は、「行為」のみならず「認識」の制約でもあって、その意味で一切の経験の制約であり、換言すればそれは「超越論的意志」ということになる。(238)
ショーペンハウアーは更に、「意欲の主体」に先立つ知覚不可能な状態を「時間の外に存する統括的意志作用(der universale Willensakt)と呼び、これをカントの「叡知的性格(intelligiber Karakter)と同一視する。この「統括的意志作用」ないし「意志という主体」こそ、ショーペンハウアーが後に「物自体としての意志」と呼ぶところのものである。(239)
一切の認識活動にはそれに先立って「意志(という主体)」が前提されなければならない(243)
一切の認識活動の相関者が認識主観であるかぎり、「意志」とうSubjektは単に、認識可能な「意欲の主体」に先行するだけでなく、認識主観というSubjektにとっても超越論的に先行するものであることを意味する。(243)
梅田孝太『ショーペンハウアー』
ショーペンハウアーにとって人間存在の最も重要な要素は、知性ではなく「意志」である。知性は二次的なものにすぎない。わたしたちは自分たちの内に意識的な近くと思考を、すなわち知性的なものを見出すことができるが、それらを下から支え動かしているのが「意志」なのだとショーペンハウアーはいう。(54-5)
わたしたちは身体活動にのみ、「意志」との連動を実感できる。しかし、他のあらゆる表象もまた、「意志」と連動しているのではないか。他人や動物などの、自分と似ている表象の内的本質として「意志」を想定できるだけでなく、植物を成長させる力や、結晶を形成する力、物質に働く磁力や引力も、すべて本質的には同一の力なのではないか、あらゆる存在のルーツであるような根源的な力、それを「意志」と呼ぶことができるのはないか-ショーペンハウアーはこのように考え、身体に見出した「意志」をあらゆる表象の内側に見出し、すべてが一つの「意志」であるような、「意志としての世界」を導出してみせる。(56)
はたして自由というものは、政治や歴史によってさらに新しいものを増やそうとする営みによって実現されるのではなく、むしろそうしたシステムを超え出ようとすること、すなわち「生きようとする意志」からの解脱という境地においてはじめて実現されるものではないか。それが「意志の否定」というショーペンハウアー哲学の根本教説なのである。(59)
「意志の否定」が生じる瞬間というのは、芸術鑑賞や宗教的禁欲のような非日常的な瞬間だけではない。わたしたちの日常のなかにも、「生きようとする意志」を否定する瞬間がある。それが他者の苦しみに対する「共苦」の瞬間だ。(63)
「意志の否定」とは、ショーペンハウアー哲学がたどり着いた究極的な「認識」である。その「認識」は、自分も他人も生きることに同じように苦しんでいるという直観にもとづくものである。(68)
鎌田康男「ショーペンハウアー」『哲学の歴史9』
意志は、与えられた表象に従って対象を産み出したり操作したりする能力-これを弁証的意志と呼んでおく-であるだけではなく、そもそもそれらの表象を与えるかぎりにおいて世界の超越論的な制約-超越論的な意志と名づける-の位置を占める。ここから表象としての世界はその根源においては意志である、という命題が成立する。(201)
鎌田康男「意志の肯定か、意志の否定か-ショーペンハウアーとニーチェ」
存在をあらたに意味づけ、解釈し、価値づける「意志」というコンセプト自体の被解釈性を追思考をとおして暴露しつつ、その鎮静化の構造を描くことこそ、ショーペンハウアーの意志の否定の思想のめざすところであった。(257)
カントからドイツ観念論において主要概念の一つとなった「意志」は、近代市民の思考行動様式を体現している。しかしこの意志は、自己実現と自己体験とによって支えられた自己高揚と、世俗内禁欲的な自己制御との二つの契機を共に含むものである。この肯定的契機と否定的契機の弁証法的な運動こそ、カント以降の哲学、ことにドイツ観念論が注目した思考・存在様式であった。(258)
東洋西洋を問わず、伝統社会においてはほとんど例外なく、認識による意志の沈静化のシステムをみずからのうちに備えている。それは、既成の存在秩序に介入し、これを操作変革する強い意志を苦の根源であると考える。(265)