yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

金井利之『行政学講説』まえがき

行政学を学ぶ意義は、行政職員になるためではない。医学を学んで医師になり、法律学を学んで弁護士なることはあっても、行政学を学んだことは行政職員なることには、ほとんど繋がらない。勿論、行政学を学んだ人が行政職員になることはあるかもしれない。しかし、それはたまたまの関係に近い。(3)

行政学を学んだことは行政職員になることにほとんど繋がらない」。なるほど。つい先日に両親と話したことだが、公務員には絶対なりたくないと思っていた僕が、大学で西尾勝行政学の講義を受講し、地方公務員の道を選んだことは例外的なことなのかもしれない。

自分側に権力へ繋がる方策を身につけても、「他人の身を切る改革」だけにのみ使われるかもしれないし、中途半端な権力を持つことで支配者の下僕として使役されるかもしれない。さらにいえば、権力の獲得・維持自体が、それが自己目的化することもあろう。行政の奉仕するべき目的を見失っては、効果は空振りしてしまう。(4)

「行政の奉仕するべき目的を見失う」、この言葉は重い。周囲の職員や組織を批判(非難)して距離を置いているようで、無意識的に行政の論理にべったりになってしまう人間は少なくない。

まずはこの「無意識」に気づき、「行政の奉仕するべき目的」を再考するために、本書を読み進めようと思う。

 

 

予算の繰越しについて

「未契約の工事費を次年度に繰り越すことはおかしいので、増額予定があるなら変更契約してから繰り越してください」-ある年度末の手続きの中で、財政担当課からこのように言われたことがある。「そもそも『繰越し』ということ自体が例外的なもので、変更契約が想定できるからといってその想定額まで繰り越しするというのは不可」であると。つまり、繰越しするのは「契約額(の内、未執行のもの)」に限るという論理である。年度末から年度当初の事務処理の中で、この出来事を思い出したのでメモ。

まず、繰越明許費は地方自治法第215条にて規定されている予算の内容の一つである*1。また、地方自治法第208条第2項では、「自治体の歳出は、その年度の歳入をもって充てなければならない」という「会計年度独立の原則」が定められている。繰越明許費は、この会計年度独立の原則の例外である*2

繰越明許費の説明は、塩浜克也・米津孝成『「なぜ?」からわかる地方自治のなるほど・たとえば・これ大事』の以下の説明がわかりやすい*3

繰越明許費とは、歳出予算に計上した経費のうち、その性質や予算成立後の事由により年度内に支出が終わらない見込みがあるものについて、予算として定めることにより、翌年度に繰り越して使用することができる制度です(自治法213条)

結果として事業は複数年度にわたりますが、当初の予算設定は単年度であり、また、翌年度までの繰越しにとどまる点で、継続費とはことなります。対象となるは、「道路や公共施設を建設するための予算を準備したが、用地買収が難航した」などの場合です。(90)

では、財政担当課が指摘するとおり、未契約分を繰り越すことはできないのか?もちろん、執行見込みがないものを繰り越すことには問題がある。しかし、そうでない場合でも「未契約」という理由で繰越しできないのか。定野司『自治体の財政担当になったら読む本』では、「繰越明許費に計上すれば、未契約の仕事を翌年度に契約することもできます」(82)とある。だが、これは国の補正予算を受けた3月補正、いわゆる15か月予算*4のような例外的な扱いであり、そうでないものについては認めることができないというのが財政担当課の論理であった。

以上のことから、翌年度で変更契約が想定できるものは繰り越しすることができないのか。松木茂弘『自治体財務の12か月<第1次改訂版>』には、次のような説明がある。

繰越明許費の繰越ですが、すべて予算の議決の範囲内で繰越額を決定することになります。予算の議決は限度額ですので、全額を繰り越すか一部にするかの判断が必要となります。この場合、翌年度で変更契約が想定できるものは不用額を含めて繰り越すかどうかの判断が必要となります。…なお、景気対策で国の補助金を財源として前年度に前倒して予算を計上した場合は、未契約の状態で全額を翌年度へ繰り越すことになります。(39)

これらの資料を提示しつつ、土木工事の性質を説明することで、変更契約が想定できるものも繰り越しすることができたが、「これはあくまでも例外的な扱いだから、できるだけこのようなことが生じないように」ということであった。

補足だが、繰越処理のスケジュールについても、『自治体財務の12か月<第1次改訂版>』の以下の記述が参考になる。

タイムスケジュールとしては概ね4月の第1週ぐらいまでに終わらせるようにしますが、事業の内容によっては、4月1日から支出負担行為などの財務執行手続きが必要なものがあり、新年度スタート時点ですぐに予算の繰越手続きが必要なものがあり、新年度スタート時点ですぐに予算の繰越手続きが必要なケースがあります。一方で、道路事業などの公共事業の場合、工事検査の関係によって繰越事業費の確定が遅れるため、4月下旬ぐらいまで手続きがずれ込むものもあります。したがって、一斉に事務処理が行えるものではありませんので、ここの事業内容によって個別に対応する必要がでてきます。(38)

財政担当課と事業担当課、それぞれの経験の範囲内でのみ思考・判断するのではなく、それぞれの事務手続きや事業の性質を理解しあって、スムーズかつ適正に事務処理を行っていきたい。

 

*1:地方自治法第215条にて、予算の内容は、①歳入歳出予算、②継続費、③繰越明許費、④債務負担行為、⑤地方債、⑥一時借入金、⑦歳出予算の各項の経費の金額の流用、からなると定められている

*2:定野司『自治体の財政担当になったら読む本』では、会計年度独立の原則の例外として、繰越明許費のほか、継続費の逓次繰越、事故繰越、翌年度歳入の繰上げ充用、決算剰余金の繰越しなどをあげている(99)。一方、小西砂千夫『地方財政学-機能・制度・歴史』では、「会計年度独立の原則の例外として、継続費、繰越明許費、債務負担行為の3つの予算が設けられている」(431)と説明されている。なお、定野司『自治体の財政担当になったら読む本』では、継続費と債務負担行為は、予算単年度主義の例外として扱われている。

*3:塩浜克也『月別解説で要所をおさえる!原課職員のための自治体財務』128頁以降も参照。

*4:3月補正・15か月予算については、松木茂弘『自治体予算編成の実務』70頁以降、同『自治体財政Q&Aなんでも質問室』20頁以降が参考になる。

伊藤潤一郎『「誰でもよいあなたへ」-投壜通信』

「特定の二人称以外に言葉が流れつく先は、誰でもよい誰かだけでなく、誰でもよいあなたでもありうるのではないか」(71)-タイトルにもなっているこの「誰でもよいあなた」という「不定の二人称」について、多数の固有名と日常の出来事を折り込みながら言葉にする試みである。「日常のモヤモヤを手がかりにするような哲学風エッセイ」(126)と思われるかもしれないが、本書はそのようなエッセイとは一線を画している。
では、本書の特異性とは何か。それは、「哲学風エッセイ」とは異なる「時間」が、テクストの中に流れていることである。例えば、「庭付きの言葉」のなかで、「ゆだねる」という時間のあり方について次のように語られている。

重要なのは「ゆだねる」という時間との関わり方である。それは、人間によるコントロールを制限したような時間のあり方だといってもよい。人間が庭に流れる時間をすべて支配し、そこに生きるものを管理するのではなく、別のところから風に乗って運ばれてきたり、鳥の糞のなかに入ってきたりした種が、偶然そこで芽吹くような余白をつねに残しておくのが「ゆだねる」という時間のあり方にほかならない。(26-7)

そして、この「ゆだねる」という時間は、「「あなた」を待ちながら」に出てくる「待ちながら」という言葉にも関係する。これらは、「意味の内部から意味の外部への通路を開こうという困難な企て」(16)であり、「新たな意味が生成してくるのを待つという時間のプロセス」(28)なのである。
また、「岸辺のアーカイヴ」では、「蔵書やアーカイヴとは潜勢力なのである」(43)として、現前・現在という尺度ではない、「いつか役に立つかもしれない(ということは、役に立たないかもしれない)という可能性」(36)が示されている。そして、「その可能性を信じることは、私自身の変容を肯定すること」(45)でもあると著者は述べる。
これら「誰でもよいあなたへ」が有する時間性を描く試みは、現代社会における「現在中心主義」(36)、「即効性」や「量的思考」(118)への批判にもなっている。「細切れになった時間」(97)を生きている私たちに対して著者はこう述べる。

岸辺で壜を拾い上げる者に必要なのは、私にしか聴き取れない声を聴き取る耳なのである。この耳をもってさえいれば、細切れにされた時間のなかで拾い上げた断片であっても、おのずと他の言葉へと結びつき、新たな意味が生まれていくことだろう。(108)

このようなやり取りのなかで立ち現れる共同体への「信」が宿った一冊である*1

 

*1:「「誰でもよいあなた」に言葉が届くことを信じて、このやり取りとも言えないようなやり取りをつづけていくときに立ち現れるものこそ、おそらくナンシーが「共同体」という言葉で語ろうとしていたことにちがいない」(伊藤潤一郎「誰でもよいあなたへ-ジャン=リュック・ナンシーからの投壜通信」『群像2021.11』271)

山本圭『嫉妬論-民主社会に渦巻く情念を解剖する』

 「嫉妬はいち個人の問題だけでなく、広く政治や社会全体にもかかわるものだ」(21)。この「やり過ごすことのできない嫉妬」(236)という問題を、著者は学問横断的に探求していく。
 本書を読み進めていくと、自分がいかに嫉妬に振り回されているかを実感し、「自分が嫉妬していることを自分で認める恐怖」(72)にも直面することになるだろう。しかし、嫉妬の構造や思想史に分け入った本書は、読者にさまざまな「気づき」を与えてくれる。
 まず、嫉妬の両義性に注目すべきであろう。「嫉妬は他人の失敗を待ち望むもっと醜くドロドロした、おぞましい情念」(38)と一般的に思われているが、「嫉妬の公的な使用」(101)のようなポジティブな側面にも光が当てられている。「嫉妬のような悪感情が逆説的にも共同体維持のために不可欠な役割を果たしていた」(118)という面もある。
 そして、本書の最も注目すべきポイントは、「正義や平等、さらには民主主義といった政治的な概念そのものが、嫉妬感情と深く関係している」(28)として、嫉妬と政治との関係を掘り下げているところである*1。民主主義の基本的な価値観の一つに「平等」の理念があり、この平等の要求にこそ嫉妬が潜んでいるのだ*2。さらに、民主化がもたらした平等の意識によって、人々はお互いに比較するようになり、人々の嫉妬感情が爆発的に拡がった。著者は次のように指摘する。

つまり、嫉妬は平等と差異の絶妙なバランスのうえに成立する感情なのである。そしてほかならぬ平等と差異こそ、私たちの民主主義に不可欠な構成要素であるとすれば、嫉妬が民主的な社会において不可避であると理解できる。(220)

 嫉妬を禁止することは過度な平等と画一化という息苦しいディスとピアを招く。現在注目されているコミュニズムにおいても嫉妬は消えることがないどころか、差異の縮小によって「嫉妬のディスピアを招く可能性」(197)もありうる。また、嫉妬のエネルギーを平等や正義を要求する「世直しのエネルギー」(236)とすることはできるかもしれないが、嫉妬心は都合よくコントロールできるものではなく、後に「ひどい二日酔い」(238)に苦しむかもしれない。私たちにできることは、本書でも述べられているように、嫉妬心を消し去るのではなく、抑制する仕掛けを複数用意することであろう。

 「嫉妬的人間」(220)は忌み嫌うべきものではなく、かつて著者が語った「不審者」という存在とも言えよう。「嫉妬」という見たくない感情と向き合い、その両義性を明らかにする本書は、「来たるべき公共性を開く」*3一冊である。

 

*1:これは、「<公的でないもの>の政治学」(山本圭『アンタゴニズムス-ポピュリズム<以後>の民主主義』19)のプロジェクトの一つとも言えよう

*2:また、民主主義の不確実性や不透明性が、嫉妬感情を掻き立てている(「私と彼とでは大した差はないのに、なぜか私は「たまたま」うまくいかなかった、私だけがうまくいかないという偶然は許せない!」)という面もあるだろう

*3:『アンタゴニズムス』18

ショーペンハウアーの「意志」概念について

鳥越覚生『佇む傍観者の哲学―ショーペンハウアー救済論における無関心の研究―』合評会に参加。

全体討論で話題になった「意志」概念についてメモ。

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界Ⅱ』

意志は、純粋にそれ自体として見れば、認識を欠いていて、盲目的で、抑制不可能な単なる衝動にすぎない。このような衝動は無機的な自然や植物的な自然とその諸法則のうちに、さらにはまたわれわれ自身の生活の植物的な部分(生殖と栄養にだけ関係する部分)のうちにも現れ出ていると思う。(248)

意志そのものは端的にいって自由で、まったく自分ひとりで自分を規定していくものであって、このような意志にとってはなにひとつ法則は存在しない(271)

 

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界Ⅲ』

意志が自分の本質自体の認識に到達して、この認識のなかからの鎮静剤Quietivを獲得し、まさにそのことによってさまざまな動因Motivの影響から脱却するようになったときにはじめて、意志の自由が出現するにいたる(224)

 

鎌田康男・齋藤智志・高橋陽一郎・臼木悦生訳著『ショーペンハウアー哲学の再構築』

ショーペンハウアー『充足根拠律の四方向に分岐した根について』(第一版)
意志は、ただ直接の客観[身体]に対して、したがって外界に対してのみ因果性を有するだけではなく、認識主観に対しても因果性を有する。すなわち意志は、認識主観にかつて現在したことある表象を強制的にくり返すことができるし、そもそもあれこれのものに注意を向けたり、一連の任意の思想を呼び起こしたりすることも強制できるのである。(111)

鎌田康男「ミレニアムのショーペンハウアー

ショーペンハウアーは、合理性の名のもとに苦を再生産する盲目な生への意志について語ることによって、自己構築する合理性自自身を非合理として暴露し、そのような意志の否定の可能性を示す。しかし意志の否定を勧めたり、ましてや命じることはない。ただ、意志の構造を明らかにすることによってのみ、その認識が意志の鎮静剤として働くことも可能になる、とショーペンハウアーは考える。(164)

カントは、意志を「表象に対応する対象を産出するか、あるいはそのように自己規定する能力」である、と説明しているが、ショーペンハウアーは、アウグスティヌスの『三位一体論』における意志論から後期フィヒテの『意識の事実』における注視(Attention)に至る伝統に従い、対象を産出する際に参照せられる(現実にはまだ存在しない)表象を産みだす想像力を意志の働きに組み入れることによって、この立場を徹底している。(167)

ショーペンハウアーが世界の自己認識としての哲学について語るとき、「概念による世界の本質の反復」とは、概念による自己創造と存在構築への意志の放棄を表現するものであり、世界の背後の実体を指示するものと解することはできない。(178)

 

高橋陽一郎「ショーペンハウアー意志論の再構築」

ショーペンハウアー哲学において世界の根源である「意志」は、当初われわれの認識や行為の「制約」として要請されたものであり、その意味で「超越論的なもの」であって、決していかなる意味での「実体」であってもならなかったのである(225)
「決意」を通じ行為成立の契機として見出された「意志」は、「行為」のみならず「認識」の制約でもあって、その意味で一切の経験の制約であり、換言すればそれは「超越論的意志」ということになる。(238)

ショーペンハウアーは更に、「意欲の主体」に先立つ知覚不可能な状態を「時間の外に存する統括的意志作用(der universale Willensakt)と呼び、これをカントの「叡知的性格(intelligiber Karakter)と同一視する。この「統括的意志作用」ないし「意志という主体」こそ、ショーペンハウアーが後に「物自体としての意志」と呼ぶところのものである。(239)

一切の認識活動にはそれに先立って「意志(という主体)」が前提されなければならない(243)

一切の認識活動の相関者が認識主観であるかぎり、「意志」とうSubjektは単に、認識可能な「意欲の主体」に先行するだけでなく、認識主観というSubjektにとっても超越論的に先行するものであることを意味する。(243)

梅田孝太『ショーペンハウアー

ショーペンハウアーにとって人間存在の最も重要な要素は、知性ではなく「意志」である。知性は二次的なものにすぎない。わたしたちは自分たちの内に意識的な近くと思考を、すなわち知性的なものを見出すことができるが、それらを下から支え動かしているのが「意志」なのだとショーペンハウアーはいう。(54-5)

わたしたちは身体活動にのみ、「意志」との連動を実感できる。しかし、他のあらゆる表象もまた、「意志」と連動しているのではないか。他人や動物などの、自分と似ている表象の内的本質として「意志」を想定できるだけでなく、植物を成長させる力や、結晶を形成する力、物質に働く磁力や引力も、すべて本質的には同一の力なのではないか、あらゆる存在のルーツであるような根源的な力、それを「意志」と呼ぶことができるのはないか-ショーペンハウアーはこのように考え、身体に見出した「意志」をあらゆる表象の内側に見出し、すべてが一つの「意志」であるような、「意志としての世界」を導出してみせる。(56)

はたして自由というものは、政治や歴史によってさらに新しいものを増やそうとする営みによって実現されるのではなく、むしろそうしたシステムを超え出ようとすること、すなわち「生きようとする意志」からの解脱という境地においてはじめて実現されるものではないか。それが「意志の否定」というショーペンハウアー哲学の根本教説なのである。(59)

「意志の否定」が生じる瞬間というのは、芸術鑑賞や宗教的禁欲のような非日常的な瞬間だけではない。わたしたちの日常のなかにも、「生きようとする意志」を否定する瞬間がある。それが他者の苦しみに対する「共苦」の瞬間だ。(63)

「意志の否定」とは、ショーペンハウアー哲学がたどり着いた究極的な「認識」である。その「認識」は、自分も他人も生きることに同じように苦しんでいるという直観にもとづくものである。(68)

 

鎌田康男「ショーペンハウアー」『哲学の歴史9』

意志は、与えられた表象に従って対象を産み出したり操作したりする能力-これを弁証的意志と呼んでおく-であるだけではなく、そもそもそれらの表象を与えるかぎりにおいて世界の超越論的な制約-超越論的な意志と名づける-の位置を占める。ここから表象としての世界はその根源においては意志である、という命題が成立する。(201)

 

齋藤智志/高橋陽一郎/板橋勇仁編『ショーペンハウアー読本』

鎌田康男「意志の肯定か、意志の否定か-ショーペンハウアーニーチェ
存在をあらたに意味づけ、解釈し、価値づける「意志」というコンセプト自体の被解釈性を追思考をとおして暴露しつつ、その鎮静化の構造を描くことこそ、ショーペンハウアーの意志の否定の思想のめざすところであった。(257)

カントからドイツ観念論において主要概念の一つとなった「意志」は、近代市民の思考行動様式を体現している。しかしこの意志は、自己実現と自己体験とによって支えられた自己高揚と、世俗内禁欲的な自己制御との二つの契機を共に含むものである。この肯定的契機と否定的契機の弁証法的な運動こそ、カント以降の哲学、ことにドイツ観念論が注目した思考・存在様式であった。(258)

東洋西洋を問わず、伝統社会においてはほとんど例外なく、認識による意志の沈静化のシステムをみずからのうちに備えている。それは、既成の存在秩序に介入し、これを操作変革する強い意志を苦の根源であると考える。(265)