yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

10月と言えば…予算編成

10月になれば、おそらくそのうち予算編成方針の通知ががあって、予算要求作業が本格化する。それに向けて、昨年の予算要求時期には出版されていなかった、吉田博・小島卓弥『予算要求の実務-実践から新たな仕組みづくりまで』を読んだ。

自治体 予算要求の実務

自治体 予算要求の実務

 

本書では、様々な自治体の予算編成方針や見積要領が随所で引用されており、他の自治体の考え方を知ることができて参考になる。

また、財政当局とのやりとりについて具体的な指摘と対応の例が取り上げられており(102-6)、これも勉強になるし、事前に読んでおくことで、より効率的に資料を準備することができると思う。

あと、第2章の「予算をめぐる論点」で語られている次の点に激しく同意。

歳出予算とは、款、項別の金額であるので、個別の予算事業として整理されるものだけではなく、その項の予算額の総体によって、政策目標の実現を図ることが原点になる。(25) 

これまで、(歳出)予算は 款・項であり、その金額が議決対象であり、各事業単位ではないことを説明してきた。行政は、最少の経費で最大の効果を目指すものであるので、投入される資金ができるだけ有効に使われることが大切である。事業は大くくりの方がより執行の弾力性を高めるとみられる。事業の性格にもよるが、事業レベルでの管理の壁は高過ぎない方がよいだろう。(26-7)

この「執行の弾力性」という観点で財政部局と争ったことがあった。様々な資料を準備して、法的な観点、事業の「枠」という観点、執行の弾力性という観点から色々と説明してもなかなか納得してもらえず苦労した記憶がある。この件を通じて、知識や正しさだけでは問題を解決することができず、相手方の資質や性格を見極めて交渉することの重要さを再認識した。

話しが逸れてしまったが、本書は予算要求において必読の一冊。そして、予算編成方針が通知された後は、その方針を熟読し、予算要求事務をタイトなスケジュールで進めなくてはいけないので、要求部局の職員は今この時期にこそ本書を読むべきであろう。

再帰化する社会でデモクラシーを擁護すること

宇野重規田村哲樹・山崎望『デモクラシーの擁護-再帰化する現代社会で』の「共同綱領-デモクラシーの擁護に向けて」を読んだ。

デモクラシーの擁護 ―再帰化する現代社会で―

デモクラシーの擁護 ―再帰化する現代社会で―

 

本書は再帰性*1に着目しつつ、デモクラシーを擁護するという観点から書かれたものである。今回読んだ第一章は、 宇野重規田村哲樹・山崎望による共同綱領であり、ギデンズやベックを取り上げて再帰的近代化の特徴を述べ、それがもたらす困難を指摘し、ネオ・ナショナリズムリベラリズムではなく、デモクラシーにその困難を解決する可能性を見出している。

本書で指摘されている再帰的近代化がもたらす諸困難とは、①個人の負担増大、②私的問題と公的問題の媒介の消失、③異なる価値観の衝突、という三点である。

個人的に特に興味深く思ったのは、個人の負担増大という困難に対して、デモクラシーがその負担軽減を可能にすると指摘されている点である(32-4)。デモクラシーによる負担軽減は、①諸個人の判断・決定の基盤となるものがデモクラシーを通じて集合的に形成されること、②判断・決定そのものがデモクラシーによって集合的になされること、という二つの要素からなる。そして、ここでのデモクラシーとは、「さまざまな他者との対話を通じて自己を再帰的に捉え直していくような」「熟議民主主義」である(33)とされる。

しかし、著者も指摘しているように*2、まさにこのようなデモクラシーにこそ、個人は負担を感じるのではないか、個人の負担増大に注目する以上、この点をもっと掘り下げるべきだと思う*3

また、リベラリズム自由主義)とデモクラシーの緊張関係について議論されている箇所も興味深かった。次のような指摘は、政治哲学や政治理論に関心がある人が見落としがちな点であり、重要な指摘である。

自由主義とデモクラシーの関係を歴史的に振り返ったとき、明らかになるのは、両者の関係を決定するのが、単なる論理的な整合性ではないということである。重要なのは、その時代ごとの状況、とくにデモクラシーの発展の度合い、デモクラシーの統治能力に対する信頼、さらには経済状況、社会的安定、政府の権限の大小などであり、これらが両者の関係を決定する際の大きな規定要因になったことは間違いない。(64)

これは学問における現実政治・社会との「距離」という視座からも重要な指摘。現実を切り離して「論理整合性」を絶対化してはいけないし、現実に近づきすぎて学問的立ち位置を失ってもいけないことを再認識。

そして、リベラリズムとデモクラシーとの関係について、異なる価値観の衝突の観点から議論されている箇所は重要。

リベラリズムにおいて重視されるのは、これら多元的な世界観・価値観の共存の条件であり、個々の世界観・価値観はとりあえず変わらないものと前提される。重要なのは、ある世界観・価値観が他の世界観・価値観を否定・抑圧しないことであり、そのために個々の世界観・価値観から独立した正義が要請される。しかしながら、このようなリベラリズムに対し、わたしたちが目指すデモクラシーは、対話と交渉を通じ、個別の世界観・価値観自体が変化していく可能性を重視する。もちろん、この可能性を過剰に評価することには慎重であるべきである。とはいえ、時間のなかで個人や集団は相互接触を通じて変化しうるという動的な可能性を考慮に入れることなしに、再帰的近代化の進む社会における秩序を構想することは難しいであろう。リベラリズムによる静的な共存の条件の模索に対し、デモクラシーによるより動的な対話と交渉の可能性を重視する所以である。(74) 

動的な可能性を考慮に入れることは重要であるが、個人的には「静的な共存の条件」や安定性を重視している(そして、これらこそが個人の負担軽減につながると考えている)から、私の価値はデモクラシーよりリベラリズムにあるのかもしれない。

今後、デモクラシーだけではなく、リベラリズムについても要勉強。

*1:再帰性」は、「ギデンズの定義に従い、「社会の実際の営みが、まさしくその営みに関して、新たに得た情報によってつねに吟味、改善され、その結果、その営み自体の特性を本質的に変えていく」こと」と定義されている(19)。

*2:「この種のデモクラシーに関わること自体が、現代社会に生きる人々にとって、ある種の負担感をもたらす可能性はある。」(34)

*3:この点を議論するにあたり、山本圭『不審者のデモクラシー』は注目すべき一冊であり、デモや運動を含め、これからのデモクラシーを語るうえでの必読書と言える。

民主主義と偶有性

大澤真幸『現実の向こう』の第1章の中にある「民主主義はどういう政治制度か」の箇所をメモ。

大澤は民主主義の特徴を「どのような敵対関係をも-変形させた上で-受け容れるところ」にあると指摘し、その例としてエルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフの議論を紹介している(77)。しかし、大澤はムフとラクラウについて、「美しく見えるけれども、はっきりいって欺瞞」であり、「何か根本的な不徹底さがある」と批判している(78)。その理由は、民主主義はどんな敵対者も存在を認めるといっているが、実際には民主主義を否定する人を認めることはできず、その点において根本的な排除を前提にしているからである。

また、大澤は、民主主義だけが権力の根拠のなさを隠蔽しない=権力行使の偶有性を自覚しているというサイモン・クリッチリーの説を、不徹底であると次のように批判している。

民主主義以外の政体が権力行使の偶然性=偶有性を隠蔽していることは確かですが民主主義にも同じような隠蔽がある。ただ、民主主義にあっての隠蔽の仕方が、一段巧妙だということだけだと思うのです。(80) 

そして、民主主義による権力の無根拠性・偶有性の自覚には「アイロニカルな没入」(81)と同じ構造があるとして、次のように指摘する。

結局その偶有性の自覚は、行動によって否認されている、と僕は思う。偶有性を自覚するということは、必然的に合意が確保できるような普遍的な正義を断念することですね。民主主義はこのことについて、いわば頭ではわかっているけれども、実際の行動では、その認識を裏切っている。(83)*1

そして、このような民主主義が機能するために必要な前提を大澤は説明しており、ここが民主主義を考察するうえで非常に重要となる。

討議に基づく民主主義が可能であるためには、(任意の)現在においては不確定な、未来に判明するはずの普遍的な正義の存在を前提にしなくてはならない。つまり、討議をしているとき、僕たちは、どこかに、どこか遠い未来に、必然的に合意するはずの普遍的な正義が存在しているかのように振る舞っていることになるのです。

だから、民主主義的な討議が打ち出す結論は、常に、偶有的であることを人々は知っていますが、その偶有的な結論を人が受け入れるのは、-今は判明していないという形で-消極的・否定的に想定されている必然的で普遍的な正義の存在可能性が、あらかじめ前提にされているからです。「偶有的であることは知っている、けれども、必然的な結論があるかのように振る舞う」というアイロニカルな没入の形式がここにある。(84) 

 

多数決で多数派の意見が集合的な意思の表明になるのは、結局、相対的に多くの人が支持している意見が、原理的にはすべての人が支持するはずの普遍的な判断を、暫定的に代理していると見なされる場合です。したがって、多数決成り立つためには、普遍的な判断の存在が-その内容に関して未定なままに-想定されていなくはならないのです。とすれば、ここには、討論の場合と同様の「アイロニカルな没入」の形式があると言わなくてはならない。(85)

 

民主主義を採用する以上は、普遍的な正義が不在である-したがって決定は常に偶有的である-という前提から出発しているように見えますが、その実、伝統的な民主主義のふたつの方法(「討議」「討論」と「多数決」「投票」)は 、ともに、そうした正義が-その内容についてはいつまでも未定ですが-存在していることを前提にして、機能するわけです。(85-6)

 民主主義の前提や理論と実践を考える上で大変参考になる。

*1:本書で紹介されているデリダハーバーマスの論争にも同じような構造がみられる。「ふたりとも「他者の尊重」が基本線になっているのは同じなのに、身動きとれない論争状態になっている。したがって、結局は、デリダ風のラディカルな主張も、実践的には、ハーバーマスの線にまで穏健なものにならざるをえない。その結果、本来は、ライバルであった二人は、最近では手を組むまでに至ったのです。」(67)

脱構築と政治的実践、そして否定神学的共同体

東浩紀存在論的、郵便的』を再読したところ、今の自分にとって大変興味深い箇所があったのでメモ。

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

 

 具体的には、第二章の「(1)バーバラ・ジョンソン「参照の枠組み」について」と「(2)外傷traumatismeとユダヤ性」(102-110)。以下、その中でも特に興味深った箇所を引用。

ゲーデル脱構築は完全に形式的である。したがってそれは具体的応用に際しては必ず、ある飛躍、九〇年代のデリダによる神秘化された表現を借りれば、「不可能なものへの無限の責任」を要求する。しかしここで警戒すべきは、理論的に支えられないその飛躍の「穴」を埋めるためにこそ、素朴なイデオロギー、主体や共同体の経験主義的な肯定が再来しうることである。したがってジョンソンの問題は、脱構築と政治的実践の接合が陥りがちな陥穽を範例的に示している。脱構築アイデンティティ・ポリテックス、否定神学と経験論はくるりと反転して融合するのだ。実際にいまの日本でも、ドゥルーズデリダなどの超越論的思考に深い影響をうけたはずの論者たちが、しばしば政治的・社会的批判の文脈で単純な経験論に回帰している。(104) 

 

いかなる同一性ももたず、つねに他者に開かれていること。しかしそれは言われるほど単純な話ではない。現実には、同一性の欠如がむしろ同一性を強化することがあるからだ。(108) 

 

そもそも「メシア的なもの」とはデリダにとって、「来るべき民主主義」のラディカルな異種混合性…を表す重要な隠喩=概念だった。しかし他者へのその開放性が、実はある外傷、実証的には語れない否定的経験によってのみ支えられるものだとしたら?そのとき「メシア的なもの」の効果は突如反転し、きわめて強力な否定的同一性の論理となって共同体を再組織化することになるだろう。つまり共同体が異種混合的であること、その成員に何も実体的な共同性がないことが、逆に人々を排他的に結びつけることがありうるのだ。私たちはそれを「否定神学的共同体」とでも呼ぶことができる。(109) 

東浩紀氏が指摘したこれらの問題点が、理論的にも実践的にも表出したのがここ数年の動きだと思う。「単純な経験路への回帰」、「同一性の欠如による同一性の強化」、「共同性がないことによる排他的結合」 、我々はこれらの問題に対して敏感になる必要がある。今はあまりにも素朴なんだと思う。「素朴であることがよいことだ」という考えもあるのかもしれないけど…。

湯浅誠「社会運動の立ち位置」を読む

久しぶりに、湯浅誠「社会運動の立ち位置-議会制民主主義の危機において」(『世界2012.3月号』所収』を読んだ。本論文は、社会運動論としてだけではなく、「政治」そのものを考える上でも非常に重要。今回再読して注目したのが「固定化」「瞬間」という概念である。湯浅氏は次のように語っている。

政治的領域の特徴は決定にあり、調整過程の終結にある。「こっち側」(社会的領域)と「あっち側」(政治的領域)を貫く政治的・社会的力関係総体の終りのない調整過程のある時点で、その力関係を切り取り、固定化するのが政治的決定である。もちろん、決定された瞬間から、その決定を政治的・社会的力関係総体の一要素に織り込んで調整過程は連綿と続いていくので、決定は常に暫時的なものでしかありえない。(44) 

 

 政策や制度は、重層的に変化する力関係をある瞬間で切り取り、暫時的であれ固定化するものだから、内容と同等あるいはそれ以上にタイミングが重視される。政治家や官僚の力量は、ある政治的・社会的力関係を長期的または瞬発的に自ら形成しつつ、同時に外的にも活用(便乗)しながら、優勢と劣勢が目まぐるしく入れ替わる複雑な調整過程の中で、テコ入れする課題が比較的優位に立った瞬間に切り取って固定化する、その「瞬間芸」の技量によってはかられる。(47)

 このような「固定化」や「瞬間」を忌避する姿勢が、民主主義の危機の要因の一つではないか。そして、政治における「固定化」を忌避する姿勢は、次のような形で自らが固定化していることを忘却させる。

「政権に期待し、接近したのが間違いだったのであり、社会的な働きかけを強めるべき」という意見、社会運動は原点回帰すべきといった主張をよく耳にする。社会運動にとって社会的な働きかけが重要なのは言うまでもないが、問題はこのような主張がしばしば「こっち側」と「あっち側」という、繰り返し述べてきた役割区分の固定化への回帰を志向している点だ。(49) 

 このような状況において、我々はどうするべきか。ここでも湯浅誠氏の次の言葉がヒントとなる。

社会運動が採るべき方向性は、バッシング競争で負けないためにより気の利いたワンフレーズを探すことではなく、許容量を広く取って理解と共感を広げていくために、相手に反応して自分を変化させ続けていくこと、政治的・社会的な調整と交渉に主体的にコミットすること、そして自分という存在の社会性より磨きをかけていくことではないかと思います。(湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』187) 

社会運動に携わる人間に限らず、先述した「固定化」や「瞬間」、そしてこの「変化」に対する理解を深めていくことが重要である。

そして、理解を深めるためにこそ、ヘーゲルを引き続き読んでいきたいとなんとなく思った。そのためにも、日々の仕事をがんばろ。