宇野重規・田村哲樹・山崎望『デモクラシーの擁護-再帰化する現代社会で』の「共同綱領-デモクラシーの擁護に向けて」を読んだ。
本書は再帰性*1に着目しつつ、デモクラシーを擁護するという観点から書かれたものである。今回読んだ第一章は、 宇野重規・田村哲樹・山崎望による共同綱領であり、ギデンズやベックを取り上げて再帰的近代化の特徴を述べ、それがもたらす困難を指摘し、ネオ・ナショナリズムやリベラリズムではなく、デモクラシーにその困難を解決する可能性を見出している。
本書で指摘されている再帰的近代化がもたらす諸困難とは、①個人の負担増大、②私的問題と公的問題の媒介の消失、③異なる価値観の衝突、という三点である。
個人的に特に興味深く思ったのは、個人の負担増大という困難に対して、デモクラシーがその負担軽減を可能にすると指摘されている点である(32-4)。デモクラシーによる負担軽減は、①諸個人の判断・決定の基盤となるものがデモクラシーを通じて集合的に形成されること、②判断・決定そのものがデモクラシーによって集合的になされること、という二つの要素からなる。そして、ここでのデモクラシーとは、「さまざまな他者との対話を通じて自己を再帰的に捉え直していくような」「熟議民主主義」である(33)とされる。
しかし、著者も指摘しているように*2、まさにこのようなデモクラシーにこそ、個人は負担を感じるのではないか、個人の負担増大に注目する以上、この点をもっと掘り下げるべきだと思う*3。
また、リベラリズム(自由主義)とデモクラシーの緊張関係について議論されている箇所も興味深かった。次のような指摘は、政治哲学や政治理論に関心がある人が見落としがちな点であり、重要な指摘である。
自由主義とデモクラシーの関係を歴史的に振り返ったとき、明らかになるのは、両者の関係を決定するのが、単なる論理的な整合性ではないということである。重要なのは、その時代ごとの状況、とくにデモクラシーの発展の度合い、デモクラシーの統治能力に対する信頼、さらには経済状況、社会的安定、政府の権限の大小などであり、これらが両者の関係を決定する際の大きな規定要因になったことは間違いない。(64)
これは学問における現実政治・社会との「距離」という視座からも重要な指摘。現実を切り離して「論理整合性」を絶対化してはいけないし、現実に近づきすぎて学問的立ち位置を失ってもいけないことを再認識。
そして、リベラリズムとデモクラシーとの関係について、異なる価値観の衝突の観点から議論されている箇所は重要。
リベラリズムにおいて重視されるのは、これら多元的な世界観・価値観の共存の条件であり、個々の世界観・価値観はとりあえず変わらないものと前提される。重要なのは、ある世界観・価値観が他の世界観・価値観を否定・抑圧しないことであり、そのために個々の世界観・価値観から独立した正義が要請される。しかしながら、このようなリベラリズムに対し、わたしたちが目指すデモクラシーは、対話と交渉を通じ、個別の世界観・価値観自体が変化していく可能性を重視する。もちろん、この可能性を過剰に評価することには慎重であるべきである。とはいえ、時間のなかで個人や集団は相互接触を通じて変化しうるという動的な可能性を考慮に入れることなしに、再帰的近代化の進む社会における秩序を構想することは難しいであろう。リベラリズムによる静的な共存の条件の模索に対し、デモクラシーによるより動的な対話と交渉の可能性を重視する所以である。(74)
動的な可能性を考慮に入れることは重要であるが、個人的には「静的な共存の条件」や安定性を重視している(そして、これらこそが個人の負担軽減につながると考えている)から、私の価値はデモクラシーよりリベラリズムにあるのかもしれない。
今後、デモクラシーだけではなく、リベラリズムについても要勉強。