yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

反啓蒙思想について(宮台真司 荒野塾『社会学原論』メモ)

宮台真司×野田智義『経営リーダーのための社会システム論』

啓蒙思想(17~18世紀):社会は人間がつくるものであり、理性的な人間が自由意志で契約を結べば合理的な社会が実現する。

フランス革命(1789年)の失敗:革命から混乱、自由社会から独裁体制

〇反啓蒙思想(19世紀~):社会は人間の理性をもってしても思い通りにいくものではない。

保守主義エドマンド・バーク

・人間の理性には限界があり、社会の複雑さはそれを超えている。

・社会をいきなり大きく変えようとすると予想外の帰結がもたらされてしまうので、変えるなら少しずつ変え以外にない。インクリメンタリズム(漸進主義)

無政府主義(ミハイル・バクーニン

・国家を否定する中間集団主義。大きな社会の統治はあきらめて、小さな(二万人以下)ユニット(血縁集団、地縁集団、職能集団、信仰共同体)の統治だけにする。

・国家や中央政府は必ず機能不全に陥る

マルクス主義カール・マルクス

・人々が自由に振る舞うことによって経済格差や貧困が生じてしまう(市場の無政府性)。市場経済は制御不能

・市場に依存する社会を、労働者が革命により壊すべき

社会学主義(エミール・デュルケム)

・社会の複雑さは人間の理性を超える=社会は思い通りにはならない(保守主義との共通性)

・国家や市場を否定しない中間集団主義

(43-6)

 

佐々木交賢『デュルケーム社会学研究』

デュルケームの政治社会学の中心的課題は、デュルケーム社会学の中心的課題そのものの政治社会学的観点からの考察である。即ち、近代社会の構造的分析、近代社会の危機的状況、アノミー状況および、かかる状況をもたらした原因の究明、個人と社会との関係の解明、個人と社会との両立可能性の方途の探求、個人の原子化の救済方策、個人と国家との媒介集団としての二次的集団の役割についての究明がその中心課題である。(202)

デュルケームは近代社会の病理現象の一つとして国家の肥大化(官僚制化)に伴う個人の原子化、アノミー化および国家活動の画一性をとりあげ、かかる病理現象の具体的治療対策として二次的機関の創出-職業集団-の必要を繰り返し訴えている。(267)

デュルケームは言っている。未組織の無数の個人から構成された社会、それらの個人を抱きとめて手放すまいとする肥大症的な国家などは、まさしく社会学的な怪物である。なぜなら集合的活動というのものは、いつの場合でも、まことに複雑なものであって、国家というような唯一無二の器官によっては、とうてい表現されえないものだからである。のみならず、国家と諸個人との間には距離がありすぎ、双方の関係も外在的、継続的にすぎるので、国家が個人意識の奥深く浸透し、これを内在的に社会化することできることではないからである。国家だけが人間の共同生活の営為にさいして形成されうる唯一の環境だとすると、人間は国家から離れてゆき、人間どうしは離ればなれとなり、それにつれて社会が解体してしまうことの避けられないゆえんは、まさにここにある。一つの国家は、国民と諸個人との間に一連の二次的集団をすべて挿入することによってのみ、自らを保持しうる。(270)

同業組合は万能薬として謳歌されているのではないし、近代国家の現状批判を行っていても、デュルケームは既述のように、思惟決定機関としての国家、いわば合理化的機関としての国家、個人諸権利、福利の実現者、擁護者としての国家という、国家の積極的役割を今後のあるべき国家の姿として提示する一種の福祉国家論者であった。また国家と二次的集団との関係において、両組織の必然的専制化の危惧、権力の均衡化の観点から両者の相互抑制作用による民主化の保持を力説するものであった。(276)

デュルケームは、国家も依然重要な機能を遂行していることは確かで、国家のみが、それぞれの組合の個別主義に対して、普遍的効用性の感覚と有機的な近郊の必要性とを対置させることができるとしている。また地方分権化ですら、同時に社会的諸力の一層強力な集中化を促進するものでないかぎり、本当に有効なものとなることはできない。社会のそれぞれの部分を国家に結びつけている絆を弛緩させることなく、国家の発揮しえなかった機能を多数の個人の上におよぼすような道徳的権力を創造しなければならないとしている。(277)

デュルケームが国家に対する個人の無力化という傾向をどのような原因から引き出していたかというと、それは、民主社会における個人の平等化という多分に政治的レベルにおける考察からよりも、むしろ無規制的な産業化の進行による集団的紐帯の破壊、そして疎外(アノミー)という、より現代的な構造変化からであって、そこに、専ら貴族社会→市民社会という変化を視野におさめてこの問題を考えた前者との間の距離がある。(291)

 

アンソニー・ギデンズ第三の道

今現在、そしてさほど遠くない将来にわたり、国民国家は、自国の市民とその周辺部に対して、政治、経済、文化の領域で確固たる支配力を保つであろう。とはいえ、こうした権力を国家が行使するには、国家間の、各国の自治体との、そして国境を越えた組織や団体との、積極的な協力が欠かせない。(65)

国家は、グローバーリゼーションに対して、構造的な対応策を講じなければならない。民主主義の民主化は、何よりもまず脱中央集権化を意味する。

しかし、これは単なる単一通行の過程ではない。グローバリゼーションは、上から下への権限委譲のみならず、下から上への権限委譲をも推し進めるための、強力なはずみと論理を提供してくれる。

民主化の双方向の力学は、国民の国家の権威を弱めるのではなく、むしろ国家が権威を再構築するための条件を整備するものである。というのは、さもないと国家を完全な機能不全に追い込みかねない外的影響に対する国家の抵抗力を、双方向の民主化が強化するからである。

ヨーロッパ連合(EU)との関連でいえば、このことは、サブシディアリティ(subsidiarity 下位または地方機関が効率的に遂行し得る活動は、中央ではなく下位または地方機関が担うのがふさわしいとする考え方)を、学術上の用語にとどめてはならないことを意味する。サブシディアリティは、超大型国家でも単なる自由貿易圏型でもない政治的秩序を構築するための理念であると同時に、国家の影響力を刷新するための理念でもある。(127-8)

政府と市民社会は、お互いに助け合い、お互いを監視し合うという意味での協力関係を築くべきである。コミュニティーという問題意識は、単なる抽象的スローガンではなく、第三の道の政治の拠りどころなのである。

グローバリゼーションの進展は、上から下への下方圧力を強めるからこそ、コミュニティーに焦点を当てることが必要となるし、またそれが可能となる。

ここで言うところの「コミュニティー」とは、失われた地域の連帯の建て直しを意味するのではなく、近隣、都市、より広い地域を、社会的、物理的に刷新するための実践的手段に他ならない。(139)

圧倒的な国家権力から個人を守ってくれるのは、健全な市民社会なのである。とはいえ、一部の人が軽々しく思い描くように、市民社会は秩序や調和を湧出する泉ではない。コミュニティーの再生は、固有の問題と緊張関係を生み出す。(148)

指針とすべきなのは、生計費を直接支給するのではなく、できる限り人的資本(human capital)に投資することである。私たちは、福祉国家のかわりに、ポジティブ・ウェルフェア社会という文脈の中で機能する社会投資国家(social investment state)を構想しなければならない。(196-7)

根源的な改革を施した福祉国家、言い換えれば、ポジティブ・ウェルフェア社会における社会投資国家とは、いかなる姿形の国家なのだろうか。

ポジティブ・ウェルフェアとしての福祉給付に関しては、政府単独ではなく、企業をはじめとする非政府組織(NGO)と連携して活動する政府によって、その資金源が担保され、配分される。

ここで言う福祉社会とは、国家のみならず、国家の上下双方向への広がりを持つ。たとえば、環境汚染の防止は、中央政府だけで解決できる問題ではない。しかし、国民のウェルフェアに直接関わる問題であることは確かだ。

ポジティブ・ウェルフェア社会においては、個人と政府の契約のあり方に変化が生じる。自主性と自我(個人の責任の原点)の尊重が、ポジティブ・ウェルフェア社会における第一の関心事となるからである。こうした基本的な意味でのウェルフェアは、貧富にかかわらず、万人の望むところであろう。(212-3)

 

西尾勝地方分権改革』

補完性の原理」とは、家庭でできることは家庭に、家庭でできなくても地域共同社会でできることは地域共同社会に、地域共同社会でできなくても市区町村でできることは市区町村に、市区町村でできなくても都道府県でできることは都道府県に、都道府県でもできないことは国で行うべし、といったように説明されるのが通例である。しかし、ここにいうところの「できる」か「できない」かの判定規準は、もっぱら客観的な能力の有無のみなのであろうか。そうではなしに、そこに居住している人々の主観的な意思の有無も判定規準に含めるべきなのではないか。そうであれば、何よりもまず、地域自治組織の住民が望むことは地域自治組織に、市区町村の住民が望むことは市区町村に、都道府県の住民が望むことは都道府県に移譲するのが、最善の方策ということになる。そして、その地域共同社会のじゅみんには望みたくても望みようのない公共的な課題の解決は、より広域の地域共同社会が責任をもって補完する義務を負うと考えるべきなのではないか。(248)