・久保明教「方法論的独他論の現在-否定形の関係論にむけて」
デカルト以来の西洋哲学の本流において、他者が何を言おうとも確かに存在する自らの思惟をあらゆる学問の基礎とする「方法論的独我論」が採られてきたとするならば、人類学的思考の基調にあるのはいわば「方法論的独他論」である。そこでは、自らにとって異質な他者が生きる世界の有様をまずもって全面的に肯定し、同時に、それが異質とみなされる受容環境において理解可能な言説を生みだすことが目指される。…
そして現在、人類学的独他論は新たな形態を採りつつある。「存在論的転換」と呼ばれる研究潮流として。そこでは、調査対象となる人々にとっての世界の有様を彼らに固有の「信念」や「世界観」の産物としてではなく、彼らの実践における世界のありかたそのもの(=存在論)として捉えることが試みられる。だが、こうした試みを正当化する論理において、存在論的転換は、周辺による中心の相対化という旧来の図式を引きずっている。むしろ、人類学は、他者の視点を介した自己の相対化を遂行する営為から、そのような相対化の営為自体を遂行しつつ分析する試みへと変貌していくだろう。(191-2)
「存在論的転換」が何を意味するのかは、いまだ曖昧で流動的である。だが、その主要な学問的背景として以下三つの学問的系譜を挙げることができるだろう。
第一に、実験室人類学から科学技術社会論へと至る系譜、とりわけブルーノ・ラトゥールらを中心に展開されてきたアクターネットワーク論(ANT)が挙げられる。人間と非人間を含む様々なアクターが織りなす関係を通じて特定の現実が生みだされる過程を追跡するANTは、自然と社会の近代的な分割の背後に、両者を混ぜあわせるアクターの動態を見いだす。…
第二に、ラトゥールらの科学技術研究の影響を受けながら連解されてきた近年の在来知研究(Indigenous Knowledge)が挙げられる。…(ラトゥールが論じるように、前近代的な側面を持つかに見える在来知が単なる認識論的な枠組みではなく、実践を通じて織りなされる人間/非人間のネットワークの産物であるならば、それとは異なる仕方で構成される科学的実践のネットワークの産物である科学的知識と同列に扱われるべきものとなることから)在来知の非科学的な側面は人々の解釈や世界観の発露ではなく、彼らが生きる世界そのものを示す見解として捉え直される。…
第三に、ポストモダン人類学からポストプルーラル人類学へと至る系譜が挙げられる。…自他の視点の並置をより形式的で先鋭的な概念対によって展開したエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロの「多文化主義/多自然主義」論もまた、ポストモダン人類学が内省的言説批判という形で展開した自己の視点の対象化を彼らの視点との共立という方向に拡張した議論として捉えられるだろう。単一の自然と複数の文化を前提としてきた複数主義的(プルーラル)な分析枠組みは放棄され、自他の視点もまた互いに比較され関係づけられながら変容していくものとされる。ヴィヴェイロス・デ・カストロが「思考の永続的な脱植民地化」と呼ぶ、こうしたポストプルーラルな発想においては、純粋に<一>なるものも、それが集まってできる<多>なるものも存在しない。関係づけられ比較される「あらゆるものは、それ自身より多く、また少ない」のである。
以上で検討してきたように、「存在論的転換」は決して一枚岩ではない。…共通した特徴として挙げられるのは、カント的相関主義というバランサーを切り落とし、それが支えていた「単一の自然/複数の文化」という従来の図式への批判に基づいて、この世界に存在するものについての他者の見解を「真剣に扱うこと(taiking seriousuly)を提唱しているという点だろう。(193-4)
パトリス・マニグリエは、ラトゥールの議論を踏まえながら人類学が「存在論」を扱うことの意義を次のように定式化する。
”問題は、人々が存在すると述べるもの全てが実際に存在していると認めることにあるのではなく、むしろ《私たちの》世界において現に存在しているものを、他者の世界において存在しているものとの《差異》においてより良く理解することである。”
マニグリエによる定式化は、存在論的転換の要約として現時点で最も洗練された文章の一つと思われる。まずもってそれは、他者の存在論を「真剣に扱う」ことが、学問的分析を放棄してアニミズムや精霊の存在を単に認める試みではないことを明確にしめしている。他者の存在論との差異において自らの存在論をよりよく理解するという方向性は、ポストプルーラル人類学における視点の並置という発想と極めて親和的であるだけでなく、「狩猟民が語ることのなかにありのままの真実があるかもしれないという可能性を許す理論的枠組み」の構築を目指すナダスティの議論とも近しいものと言えるだろう。(194-5)
相対化を人類学的営為の目的ではなく対象として捉え直し、異なる存在様態を生きるもの同士の相互作用を記述・分析すると同時に、相互作用の外部ではなくその内部において「より良い」という価値判断が発生し分裂へ変容していくプロセスを捉えうる否定形の関係論を練りあげることによって、存在論的転換は方法論的独他論の新たな形態に辿りつくのである。(200)
・石倉敏明「今日の人類学地図-レヴィ=ストロースから「存在論の人類学」まで」
デスコラがレヴィ=ストロースの立てた「自然と文化の二項対立」という図式を前提にするのではなく、むしろその発生条件を深く掘り下げた「自然の人類学」へと向かっていったのとは対照的に、ヴィヴェイロス・デ・カストロは自然と文化の二項に潜んでいたダイナミックな力学に着目し、その根本的な前提となっていた自然の単一性と絶対性を転覆する。ヴィヴェイロス・デ・カストロは民族誌から再構成される思想として「唯一の文化と多数の自然」の組み合わせによって成立する「多自然主義」が存在し得るのだと主張し、これを「唯一の自然と多数の文化」の組み合わせからなる西洋の一般的な常識(多文化主義、ないし単一自然主義)に対置するのである。(316)
「存在論的次元」とはすなわち、認識論から離れて存在するものではなく、人間的なるものの領域と、非人間的なるものの領域の力の調停であり、本質に先立って与えられる垂直的な現実性の度合いである。我々はみな、この二極の間に居ながらにして、それぞれ別々の次元に囲い込まれた「自然」「言語」「社会」「存在」といった項目のネットワークを編み上げ、またこれを解くことによって次のネットワークを築く実践に参与している。これがラトゥールの言う「可動的な存在論」であり、こうしたネットワークを丁寧に辿ることによって、社会と自然を結ぶ現実性の深度が測られることになる。(317)
「存在論的転回」後の人類学の展開の中でも特に興味深いのは、エドゥアルド・コーンの「人間的なるものを超える人類学」のように、自然界に満ちた生物次元の記号過程にまで拡張された思考作用と、それらを前提として成立する人間集団の現実認識との関係を探ろうとするものである。(320)