yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

谷川嘉浩『信仰と想像力の哲学-ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』

 研究者ではない読者にとって、ジョン・デューイから連想するのは「哲学者、心理学者、社会科学者、教育学者、教育者、アクティヴィスト」(2)という側面であろう。本書は、これら多様な側面を描きつつ、デューイの宗教論に光を与えるものである。デューイという人物について、著者は次のように特徴づける。

デューイは、人里離れた場所で沈思黙考する孤高の知識人ではなく、むしろ状況や他者から選んで学び、影響を受けることにおいて才能を発揮した「時代の集合知」のような哲学者だった。哲学だけでなく、心理学や政治学や神学などの分野、そして学問以外からも学んだ。(3)

そのため、「彼の知見の独創性は、彼を中心とする影響関係のネットワークや、同時代の問題状況を再構成すること抜きには解き明かしえない」(3)。デューイの思想形成を辿るために描かれた知のネットワークや、地域・時代状況に関する議論も本書の魅力の一つと言える。著者も指摘しているように、「デューイをインターフェイスとして、彼の生きた時代の知見の枠にアクセすることができる」(38)と言えよう。
 なぜデューイの宗教論に注目するのか。その背景には、専門職化した哲学に対する批判的な眼差しがある。では、哲学批判と宗教論はどのような関係にあるのか。それは「理論と実践に二分法を設け、「頭」(テオリア)と「手」(プラクティス/ポイエーシス)を分断し、非日常や超自然と、日常や自然を分割するという宗教の文化を、哲学は相続した」(36)からである。つまり、哲学は「宗教的慣習を大いに引き継いでおり、それが西洋形而上学の伝統を支配した」のであり、それゆえに「西洋の哲学的伝統を批判するためには、哲学に先行し、哲学が依拠している「宗教」について論じなければならない」(37)。この営みを経て、「来るべき「新しい哲学」」(37)を構想することができる。
 そして、デューイの宗教哲学で注目すべきものが、本書のタイトルになっている「信仰」と「想像力」である。著者は次のように述べる。

道徳的信仰の指し示す共同性は、想像力が捉えた共同性のことであり、自然的敬虔が含意する相互依存のことであり、想像力を左右する関心の普遍性のことであり、それに基づいて想像力が捉えた理想の共同性のことである。確かに、こうした理想と自己との複合的な関係を「信仰」と名づけるなら、それは「共同の信仰」と呼ぶほかないもののように思われる。(73)

「道徳的信仰」とは、状況変化を貫いて理想に献身し続けられる自己へと態度変換(=適応)することであり、そのような仕方で理想に自己を縛ることである。想像力には、生の具体的敬虔から理想を掴み取る働きと同時に、あるまとまり(全体)を描く働きがある。後者の働きに基づいて、他者や自然との相互依存関係が自己に意識される(=自然的敬虔)。そして、自然的敬虔に支えられる形で関心の共同性(普遍的関心)が形作られ、この関心によって当の想像力は働きが左右される。(74)

このような「信仰」と「想像力」、そして「そうした信仰を生きるための能力が人間にはある」と信じる「信頼」(295)が無ければ民主主義は機能し得ない、というのがデューイの民主主義論であり、その意味で「彼が語っているのは、市民が実質的に民主主義を担いうるかどうか以前の、生のあり方の話である」(296-7)。
 読者は改めて思うだろう、人々や世界に対する「信頼」を前提とするデューイの思想・哲学は楽観的過ぎると。しかし、デューイの楽観性は「切迫感とともに選び取られた楽観性である」(299)と著者は指摘する。

デューイは、知性や創造性に関する見方を転換することの潜在的帰結を考慮し、楽観的にも思える理想を民主主義の前提として語ったのである。こうした語りかけによって社会環境を変えることが、彼が知識人として果たした責任の一つだった。(305)

そして、デューイにとって「責任とは、理想の観点から自己と環境を変え、可能性を形にしていくこと」(304-5)であり、それは「未来への責任」(306)なのだ。
 著者は終章において、デューイとともに、「哲学の専門職化」(314)「哲学の区画化」(321)を批判的に捉え、哲学と芸術・科学・宗教・政治などの周辺分野との相互作用を探求する必要性を語り、「知への欲望としての哲学」(330)を推奨する。そして、「知への欲望としての哲学」が前提とする哲学の役割として「批評」を掲げる。「批評とは、改訂すべきものは改訂し、放棄すべきものは放棄し、保持すべきものは保持するという、価値判断を伴った選別のこと」であり、それを通じて「別の事柄への関心を育てるという再組織化が伴っている」(331)のである。

 こうした批評的な介入を通じて、私たちは「遺産を保持し、伝えることができる」(335)のであり、「社会を変え、そのことによって自分自身を変える」(340)ことができる。デューイがそうであったように、私たちは皆、「未来の帰結を見据えて状況を理想へと近づけていく義務を負うという意味での「責任」」(339)を負っているのだ。