yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

『ハイエク、ハイエクを語る』読書メモ

 『ハイエクハイエクを語る』の中で、ハイエクシュンペーターの理論とハイエク自身の理論との関係について語っている箇所が興味深いのでメモ。

 予言の性格がどこか似ています。しかしシュンペーターはパラドクスを心から楽しんでいるのです。彼は、資本主義は明らかにずっとよいものだが存続を許されず、社会主義は悪いものだが不可避的にやってくる、といって人々にショックを与えたかったのです。あれは、彼がまさに好んだ種類のパラドクスです。

 その背後には、一定の意見の流れーそれにたいする彼の観察は正しいのですがーが元に戻せないものなのだ、という発想があります。彼は逆のことを主張してはいますが、最後のところで彼は、[流れを変える]議論の力を本当はまったく信じていなかったのです。事態のあり方が人々に特定の考え方を強制することを、彼は当然の前提にしていました。

 これは基本的なところで誤っています。一定の条件下にある人々が一定のものを信じることを必然にするものは何か、を簡単に理解することなどできません。思想の進化は、それ自体の法則をもち、われわれが予測できない様々な発展に大きく依存します。私が言いたいのは、私は人々の意見を一定の方向に動かそうと試みていますが、それが実際にどの方向に動くかを予測するだけの勇気はもちません。自分がそれを少し変えることができれば、と考えているだけです。しかしシュンペーターの態度は、理性の働きに対する完全な絶望と幻滅でした。(205)

 ハイエクシュンペーターとの共通点と差異について、今後整理していきたい。

ハイエク、ハイエクを語る

ハイエク、ハイエクを語る

 

 

今井照『地方自治講義』

 地方自治の基礎概念や歴史・現状について、本書ほどわかりやすく、丁寧に論じた新書はめったにないだろう。本書を読むことで、地域社会や自治体を考える基本的枠組みを獲得することができる。

 「自治体を私たちが使えるものにしたい」(278)ー帯にも書いているように、これが本書の主張だ。

 市町村合併の歴史(第2講)、地方財政の仕組み(第3講)、日本国憲法の条文(第5講)、地方創生の現状(第6講)の記述から伝わってくるのは、「現在の自治体はすでに歴史に翻弄されて自治体本来の意義を見失いかねている」ことへの危惧と、「「分権」の名のもとに自治体統制を強めることで私たちを自治体から切り離そうと努めてきた」為政者に対する批判的な姿勢である(278)。詳しくは本書を手にして、まずは一読してほしい。ここでは、現場の立場の人間として感じたことをメモしておく。

 まず、「市民」と「市民参加」に対する著者の思いと私の思いとの違いである。著者は市民について次のように説明する。

今の私たちの生活は政策・制度のネットワークの中にあり、私たちは日常的に政策・制度に直面するので政策・制度の当事者になっている。身の回りが選択肢だらけになっている。(42)

課題がもう一つ増えるごとに政策・制度の組み合わせは無数に増えていく。こうなると自分の選択肢と完全に合致する政党などは存在しない。だから自分が当事者になって、我が身に降りかかる政策課題を考えなくてはならなくなる。これが市民という存在が誕生する背景です。(43)

考え方も感じ方も、あるいは置かれた環境や年齢、性別、職業も異なる人たちの間で意見を調整しなければならない。…市民になるということはこのように政策・制度をめぐる意見調整に参加せざるを得なくなることです。だから公的な存在になる。(43)

確かに、日常の生活で実感することはないかもしれないが、私たちは生きているだけで政策・制度のネットワークの中に投げ込まれており、その意味では「当事者」かもしれない。しかし、選択肢が増加したり、制度が複雑になったりすることで、「思考する」「意見を調整する」存在ではなく、「思考や意見調整を放棄する」存在になる可能性が高いのではないか。そして、これから地方自治について考える上で重要なことは、後者のような存在を前提とした地域社会の在り方を考えていくことだと思う。

 次に、平成の大合併は、自治体側にも国の側にも必要性や必然性がないものとして批判的な側面ばかりが取り上げられているが、市町村への事務権限の移譲を進めるという目的が背景にあり、この政治過程も描くべきである*1。例えば、西尾勝は次のように語っている。

第一次勧告を出す直前にを与党第一党である自民党行政改革本部に、委員長以下で「第一次勧告ではこういう内容を予定しています」ということを説明に行ったところ、参加された議員から異口同音に次のような意見を言われたわけです。…「市町村の権能を強化しようとしても、小規模町村では限界がある。全ての市町村に事務権限を移譲するという観点から、市町村合併を強力に推進すべきである」「委員会は、受け皿論を棚上げする方針のようだが、市町村合併の問題は分権改革と同時並行して進めるべきだ。…」とおっしゃいました。…その後、諸井委員長は自民党以外の連立与党や野党にも訪問され、議員の意見を伺ってこられました。諸井委員長は「与野党を超えて合併推進論が国会議員の多数だと認めざるを得ない。市町村合併を検討しなければ、以後の地方分権推進委員会の勧告その他に協力してもらえないかもしれない」と我々におっしゃいまして、いったんは受け皿論は棚上げするという了解で進めてきたものの、やはり市町村合併をやらざるを得ないということになりました。(地方自治制度研究会編集『地方分権 20年のあゆみ』166-7)

地制調で合併の問題を改めて検討することになったときに私が感じたことは、どうも全国の動きが財政の効率化とか、財政コストの削減とかが第一の目的になっているのはないかということでした。本来は、基礎自治体である市町村への事務権限の移譲を進める、そのための受け皿になるような市町村になれということが目標に掲げられていたはずなのに、その関係のことは全く議論が出ていない。(189) 

  ここで、私が西尾勝の議論を取り上げたのは、事務権限の移譲そのものは理念としては間違っておらず、その受け皿のための市町村合併なら同意しうるからである。なぜなら、自治体を私たちが使えるものにするためにも、西尾勝の用語を借りれば(『自治・分権再考』68)、「自由度拡充路線」だけではなく、「所掌事務拡張路線」も進めていき、自治体を強化していく必要があるからである*2

 ここでは著者との見解が異なる点を述べたが、公証事務を例とした「理屈と現実との乖離」に対する批判や、「「計画のインフレ」状態」に対する批判等、賛同できる箇所も多い。また、「市民」や「市民参加」についても、著者の理念に魅力を感じるところもある。

 まずは本書を読み、「地方自治」に少しでも関心を持ち、「自治体を使いこなす」という気持ちを持つ人が増えてほしい。それによって、自治体や地域社会は良い方向へ少しずつ変化していくかもしれない。

地方自治講義 (ちくま新書 1238)

地方自治講義 (ちくま新書 1238)

 

 

*1:地方自治制度研究会編集『地方分権 20年のあゆみ』第2部を参照。

*2:西尾勝も指摘しているように、「自治体にこれまで以上に多くの事務事業の執行権限を移譲することによって自治体の仕事の範囲を広げその仕事量を増やすことは、地方分権の推進ではあっても、地方自治の拡充になるとはかぎらない」(西尾勝地方分権改革』247)ことには注意しておく必要がある。

2017年人文書(?)メモ

2018年1月5日のゲンロンカフェ、斎藤哲也 × 山本貴光 × 吉川浩満 「「人文的、あまりに人文的」な、2017年人文書めった斬り!」は面白く、それぞれの選書リストも大変参考になった。この放送に便乗して、(おそらく)リストに入っていないオススメ人文書をメモしておく(とりあえず自分の部屋にあって視界に入ってきた書籍)。

まず、2017年はダン・ザハヴィ祭りの年でもあった。

○ダン・ザハヴィ『自己と他者』

自己と他者―主観性・共感・恥の探究―

自己と他者―主観性・共感・恥の探究―

 

 ○ダン・ザハヴィ『自己意識と他性』 

自己意識と他性: 現象学的探究 (叢書・ウニベルシタス)

自己意識と他性: 現象学的探究 (叢書・ウニベルシタス)

 ○ダン・ザハヴィ『フッサール現象学

フッサールの現象学

フッサールの現象学

 

 関連して、フッサールの研究書も充実していた。

○植村玄輝『真理・存在・意識』

真理・存在・意識

真理・存在・意識

 

 ○八重樫徹『フッサールにおける価値と実践』

フッサールにおける価値と実践―善さはいかにして構成されるのか

フッサールにおける価値と実践―善さはいかにして構成されるのか

 

 

その他、哲学関連の書籍は本当に充実していた。

○ジャコブ・ロゴザンスキー『我と肉』 

我と肉 (シリーズ・古典転生)

我と肉 (シリーズ・古典転生)

 

○『自然学 (新版 アリストテレス全集 第4巻) 』

自然学 (新版 アリストテレス全集 第4巻)

自然学 (新版 アリストテレス全集 第4巻)

 

○ヘンリー・E. アリソン『カントの自由論』

カントの自由論 (叢書・ウニベルシタス)

カントの自由論 (叢書・ウニベルシタス)

 

○G・W・F・ヘーゲルハイデルベルク論理学講義』

ハイデルベルク論理学講義:『エンチクロペディー』「論理学」初版とその講義録 (MINERVA哲学叢書)

ハイデルベルク論理学講義:『エンチクロペディー』「論理学」初版とその講義録 (MINERVA哲学叢書)

 

○丸橋裕『法の支配と対話の哲学』

法の支配と対話の哲学: プラトン対話篇『法律』の研究

法の支配と対話の哲学: プラトン対話篇『法律』の研究

 

 ○中田光雄『デリダ 脱–構築の創造力』

デリダ 脱?構築の創造力: メタポリアを裁ち起こす

デリダ 脱?構築の創造力: メタポリアを裁ち起こす

 

 

ラカン関連の書籍もたくさん出版され、大変勉強になった(さらに購入したい本も何冊かある)。

○上尾真道『ラカン 真理のパトス』

ラカン 真理のパトス

ラカン 真理のパトス

 

 ○ジャック=アラン・ミレール『ジャック・ラカン 不安(上)(下)』

ジャック・ラカン 不安(上)

ジャック・ラカン 不安(上)

 

 

ジャック・ラカン 不安(下)

ジャック・ラカン 不安(下)

 

 

 ハッキングは『数学はなぜ哲学の問題になるのか』にあわせて、次の著作も。

イアン・ハッキング『マッド・トラベラーズ』

マッド・トラベラーズ――ある精神疾患の誕生と消滅

マッド・トラベラーズ――ある精神疾患の誕生と消滅

 

 

新訳・新装版としては次の著作。

○フェリックス・ガタリ『カオスモーズ』

カオスモーズ 新装版

カオスモーズ 新装版

 

 ○ジル・ドゥルーズ /フェリックス・ガタリカフカ

 

社会学では、次の書籍が大変面白かった。

○中森弘樹『失踪の社会学

失踪の社会学:親密性と責任をめぐる試論

失踪の社会学:親密性と責任をめぐる試論

 

 

最後に、2017年は政治学・政治哲学関連の書籍も非常に充実しており、とても刺激的な一年でだった。

○中村研一『ことばと暴力』

ことばと暴力―政治的なものとは何か (北海道大学大学院法学研究科研究選書8)
 

○ハンナ・ピトキン『代表の概念』

代表の概念

代表の概念

 

神崎繁『内乱の政治哲学』

内乱の政治哲学 忘却と制圧

内乱の政治哲学 忘却と制圧

 

○斉藤尚『社会的合意と時間』

社会的合意と時間―「アローの定理」の哲学的合意

社会的合意と時間―「アローの定理」の哲学的合意

 

○坂井礼文無神論と国家』

無神論と国家―コジェーヴの政治哲学に向けて

無神論と国家―コジェーヴの政治哲学に向けて

 

○趙星銀『「大衆」と「市民」の戦後思想』

「大衆」と「市民」の戦後思想――藤田省三と松下圭一

「大衆」と「市民」の戦後思想――藤田省三と松下圭一

 

○飯田泰三『大正知識人の思想風景』

大正知識人の思想風景

大正知識人の思想風景

 

○濱真一郎『バーリンロマン主義

バーリンとロマン主義 (新基礎法学叢書13)

バーリンとロマン主義 (新基礎法学叢書13)

 

○田中将人『ロールズの政治哲学』

ロールズの政治哲学

ロールズの政治哲学

 

高坂正堯『外交感覚』

外交感覚 ― 時代の終わりと長い始まり

外交感覚 ― 時代の終わりと長い始まり

 

○尾高朝雄『ノモス主権への法哲学

 

※1月7日追加①

○マーガレット・メール『歴史と国家』

歴史と国家: 19世紀日本のナショナル・アイデンティティと学問

歴史と国家: 19世紀日本のナショナル・アイデンティティと学問

 

○ルドルフ・スメント『憲法体制と実定憲法

憲法体制と実定憲法 秩序と統合

憲法体制と実定憲法 秩序と統合

 

○加國尚志『沈黙の詩法』

沈黙の詩法―メルロ=ポンティと表現の哲学

沈黙の詩法―メルロ=ポンティと表現の哲学

 

 

※1月7日追加②

ジル・ドゥルーズ『ベルクソニズム』

ベルクソニズム (叢書・ウニベルシタス)

ベルクソニズム (叢書・ウニベルシタス)

 

 

今年の5冊+α

2016年も終わろうとしている(けど仕事は終わらない…)。今年も多くの分野の本から多くのことを学んだ。そのなかでも特に印象に残っている5冊(順不同)。

①齋藤元紀・澤田直・渡名喜庸哲・西山雄二編『終わりなきデリダ

年末に出版されたデリダ本。デリダ好きにはたまらない一冊。文献案内も充実。とても参考になる。

終わりなきデリダ: ハイデガー、サルトル、レヴィナスとの対話

終わりなきデリダ: ハイデガー、サルトル、レヴィナスとの対話

 

山本圭『不審者のデモクラシー』
これからの政治主体を考える上で重要な一冊。デモクラシーの制度的側面を重視する人にこそ読んでほしい。

吉野作造講義録研究会『吉野作造政治史講義 矢内原忠雄赤松克麿・岡義武ノート』

現代政治を観察するうえで、本書のような「政治史」は重要になる。何よりも、このようの本が出版されること自体が嬉しい。

吉野作造政治史講義――矢内原忠雄・赤松克麿・岡義武ノート
 

④伊藤正次・出雲明子・手塚洋輔『はじめての行政学

行政学の教科書と言えば、西尾勝行政学』だったけど、これからは本書になるかも。行政職員も必読。 

はじめての行政学 (有斐閣ストゥディア)

はじめての行政学 (有斐閣ストゥディア)

 

⑤松田宏一郎『擬制の論理 自由の不安』

個人的に、「擬制」は最近のキーワード。その文脈で読んだのが本書。とても面白く、勉強になった一冊。

擬制の論理 自由の不安:近代日本政治思想論

擬制の論理 自由の不安:近代日本政治思想論

 

 

その他、この5冊以外で印象に残っている本。

⑥蝶名林亮『倫理学は科学になれるのか』

本書は政治哲学や法哲学に関心がある人にも読んでほしい。

高橋陽一郎『藝術としての哲学』
ショーペンハウアー哲学だけではなく、哲学そのものについて考えさせられる一冊。
藤田直哉編・著『地域アート 美学/制度/日本』
地域アートや地域活性化に関心がある人/携わるにとって必読の一冊。美学の勉強にもなった。
飯田泰之・木下斉・入山章栄・林直樹・熊谷俊人地域再生の失敗学』
これも地域活性化に携わる人は必読。個人的には行政職員に読んでほしい。
⑩木下斉『地方創生大全』
これも行政職員に読んでほしい一冊。本書の内容を受け止めることができる人を増やさないといけない。
⑪吉田徹『「野党」論』
「(今の)野党は駄目だ」というのは事実かもしれないけど、そのような状況においてこそ、野党に対する我々の認識を深めることが重要。
⑫遠藤乾『欧州複合危機』
大きな問題に直面したときにこそ、冷静な分析が必要である。また、具体的な問題に学問が成しうることを本書は示してくれる。
⑬カンタン・メイヤスー『有限性の後で』
専門的なことはわからない。でも、世界について考える楽しさを教えてくれる一冊。
⑭村井則夫『人文学の可能性』
人文学について様々な議論が飛び交っている(いた)けど、とりあえずは本書を読めと言いたい。
⑮小島秀信『伝統主義と文明社会』
保守や秩序を語る上で必読。本書を読んで、エドマンド・バークはもっと注目されるべきだと思った。
⑯横濱竜也『遵法責務論』
「不正な法」とどのように向き合うか、この事はもっと深く、真剣に考えるべき問題。
⑰富永京子『社会運動のサブカルチャー化』
この一冊を読むだけで、社会運動に対する認識が変わる。社会運動に批判的な人に読んでほしい。
⑱平井靖史・藤田尚志・安孫子信編『ベルクソン物質と記憶』を解剖する』
ベルクソン認知科学や分析形而上学とが絡み合う興奮。刺激的。
⑲堤直規『公務員1年目の教科書』
公務員一年目の職員はもちろん、中堅・ベテラン職員も読むべし。

山本貴光『「百学連環」を読む』

本を読む楽しさ、特に精読することの快楽がわかる一冊。

抵抗の精神について

小泉信三『平生の心がけ』を読んでいて、興味深い箇所を発見。

平生の心がけ (講談社学術文庫)

平生の心がけ (講談社学術文庫)

 

本当にその通りと思うところなので、長くなるけど引用しておく。

嘗て軍部が国を誤ったという。たしかに一部将校等の分を忘れた言動には、目に余るものがあった。けれども、軍人という軍人が、皆な心からそれに同調していた訳ではない。中にはそれを苦が苦がしい越権の行動だと思っていたものも、確かにあったと思う。けれども、当時の勢いとして、自ら軍部内にいて、軍人の分際と反省とを説き、同僚の行為の僭越を指摘することよりも、声を合わせて政党の腐敗を罵り、国民の無自覚無気力を鳴らす方が、軍人としては遥かに容易かった。人々はその易きに就いて、そうして心着けば、何時か、国は悲運に導かれていたのである。

大学の学長または教授等が大学の自治を唱える。固より理由のあることである。けれども、大学の学長や教授等にとって、部外に対して大学の自治権を主張することよりも、内に向って大学の責任を論じ、大学教授等が果たして遺憾なくその職責を行っているか否かを問う方が、遥かに難く、遥かに多くの抵抗力を要することを、忘れてはならぬ。ここでも多くの場合、人々は難きを避け、外に向っての抵抗の形で、内に向っての抵抗精神の欠乏もしくは虚弱を露呈する。少なくとも彼等は、軍部内における自己批判の無力を難ずることは出来ない筈である。自己批判の必要なる一事は彼れも此れも変わりはない。それの行われないことは、或いは行われも不充分であることは、-均しく抵抗力の欠如を意味するものである。

同様の例は、なお幾つでも累ねられる。文筆家が集まって、出版物に対する取締り、または判決を批判するとする。一座のものは、取締官吏や検事判事の無理解を難ずるにきまっている。そうして、それも理由のないことではない。けれども、考えなければならぬ。かかる場合に一座の空気に逆らって、取締りや判決に正当の理由があると、言明することは、たといそう信じても、それは仲々容易いことではない。勿論私は、一斉に取締りや判決を非難する人々が、皆な悉く雷同の易きに就いているとは言わない。彼等の或る者は、たしかに真剣にそう信じ、たとい自分が、一人になってもその説を枉げないであろう。けれども、また他の或る者は、判決必ずしも無理ならずと思いつつも、同業同僚の間に異を樹てることを好まず、勢いに押され、長い物に巻かれて、どうかすると、却って仲間の者よりも一層声を大にして、当局の横暴愚劣を罵っているかも知れない。この点文筆家の或る者の心理が、前記軍部内の或る者のそれと必ず異うとは、断定すべき理由がない。この場合、抗議の大声は、必ずしも抵抗精神の旺盛を示さず、却ってその反対であるかも知れないのである。(157-8) 

人が「外部」に向って批判している様子を見ても、そこに抵抗精神を感じることができないことがあるのは、小泉が指摘しているように、自己批判が欠如しているからであろう。特に、小泉が取り上げている教授や文筆家にとって「批判」は重要なものであるから、この「内部/外部」の視座に対して敏感でなければならない。

抵抗や抗議が「力」を持たないのは、抵抗・抗議対象である「外部」が横暴愚劣だからではなく、自己批判が欠如しているからかもしれない、という懐疑の姿勢が、今は必要となっているのかもしれない。