yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

「果たし得ていない約束」に対する責任

三島由紀夫『文化防衛論』を読んだ。

文化防衛論 (ちくま文庫)

文化防衛論 (ちくま文庫)

本書には、「果たし得ていない約束-私の中の二十五年」が収録されている。今、希望を語る人たちにこそ、読まれるべき論考である。

私の中の二十五年間を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。

二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルスである。…

この二十五年間、思想的節操を保ったという自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。思想的節操を保ったために投獄されたこともなければ大怪我をしたこともないからである。又、一面から見れば、思想的に変節しないということは、幾分鈍感な意固地の頭の証明にこそなれ、鋭敏、柔軟な感受性の証明にはならぬであろう。つきつめてみれば、「男の意地」ということを多く出ないのである。それはそれでいいと内心思っているけれども。

それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、ということである。否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与えて約束を果たすわけではないが、政治家の与えうるよりも、もっともっと大きな、もっともっと重要な約束を、私はまだ果たしていないという思いに日夜責められるものである。その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、という考えが時折頭をかすめる。これも「男の意地」であろうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間を、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来たということは、私の久しい心の傷になっている。…

二十五年間に希望を一つ一つ失って、もはや行き着く先が見えてしまったような今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であったかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使っていたら、もう少しどうにかなっていたのではないか。

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。(369-73)*1

福田和也が「解説 扇動者としての三島由紀夫」で「『ツァラトゥストラ』の末人の章のような形容詞のたたみかけ方」(390)と指摘しているが、たまたま僕も『ツァラトゥストラ』を読んでいたこともあってから、三島由紀夫ニーチェを重ねながら読んだ。

三島の否定・批判の徹底さが「決起」を導いたとしても、いや導いたからこそ、三島の否定・批判のエトスを学ぶべきだ。希望を語るために、「希望の空虚さ」や「希望をつなぐことができない」と説く、三島と向き合わなければいけない。

「否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ」と言いつつ、「私はまだ果たしていないという思いに日夜責められる」というのは、「来るべき○○」に対する責任だと思う。これに対して鈍感に生きていくことができるのか、ということだ。

*1:なお、猪瀬直樹は、猪瀬直樹田原総一朗『戦争・天皇・国家』のなかで本引用箇所を取り上げて、「このとき三島は戦後民主主義を日本の宿痾と考えたが、「官僚機構とそこから生ずる偽善」と言い換えるべきだったと思っている」と指摘している(49)。

お買いもの『リアル・デモクラシー』外

最近はバタバタしていて、色々とさぼり気味。そして、疲れてくると考えなくてよい不安や悩みが襲ってくる。いや、疲れに甘えるからこそ、そういうものに囚われてしまうのかも…。

とりあえず、購入していた本をメモ。

まずは、宮本太郎・山口二郎編『リアル・デモクラシー -ポスト「日本型利益政治」の構想』。

本書をしっかりと読み、これからの政治(学)のあり方について学びたい。

次に、出口治明・島澤諭『自分の半径5mから日本の未来と働き方を考えてみよう会議』。

自分の半径5mから日本の未来と働き方を考えてみよう会議 (SB新書)

自分の半径5mから日本の未来と働き方を考えてみよう会議 (SB新書)

「自分の半径5mから」という言葉を聞くと内向きな議論に思えるかもしれないけど、「世界史」についての本を書いている出口治明氏が議論しているということが重要。時空間的にはより大きなこと(=世界)を志向しつつ、自分の半径5mから思考し、世界を変えていこうとする姿勢、それが重要だと思う。そういうことを考えつつ読みたい一冊。

あと、松尾匡『この経済政策が民主主義を救う』。

この経済政策が民主主義を救う: 安倍政権に勝てる対案

この経済政策が民主主義を救う: 安倍政権に勝てる対案

安倍政権と向き合ううえで、立憲主義「だけ」を武器にするのはよくない。経済政策においても、我々は武器をもたなくてはいけない。そのために、本書は重要であろう。

最後に、『現代思想 3月臨時増刊号 人類学のゆくえ』。

現代思想 2016年3月臨時増刊号 総特集◎人類学のゆくえ

現代思想 2016年3月臨時増刊号 総特集◎人類学のゆくえ

これは最高に楽しみな一冊。あえて言うなら、自然・動物・人間というものを考えるとき-学問的だけではなく、実務的にも-に、本書は重要であろう。本書で議論されているようなことを理解できる人間に、これからの社会について考えてほしい。

お買いもの『推論主義序説』外

本屋に行くと、「よみがえるヘーゲル!」という文字が飛び込んできた。それは、ロバート・ブランダム『推論主義序説』。

推論主義序説 (現代哲学への招待 Great Works)

推論主義序説 (現代哲学への招待 Great Works)

ヘーゲルの理論は、合理主義的なプラグマティズム」であり、「ヘーゲルは、何ごとかをなすことがいかなることであるのかを理解しようとする際、理由の文脈に地位を与えたのである」(46)と著者は語る。気になる一冊。なお、ブランダムについては、『思想2015.12』所収の、大河内泰樹「<研究動向>ヘーゲルプラグマティズム」が大変参考になる。また、滝口清栄・合澤清編『ヘーゲル 現代思想の起点』所収の、片山善博「アメリカにおけるヘーゲル研究の現況」も参考。その他、残念ながら手元にはないが、岡本裕一朗『ネオ・プラグマティズムとは何か』、久保陽一『生と認識』も必読。

そして、最近出版された、伊藤邦武『プラグマティズム入門』でも、ブランダムが取り上げられている。

プラグマティズム入門 (ちくま新書)

プラグマティズム入門 (ちくま新書)

プラグマティズム入門のための文献」では、出版当初から気になっていたど、パラパラして「うーん…」と悩んでいた、藤井聡プラグマティズムの作法-閉塞感を打ち破る思考の習慣』が取り上げられていた。改めて読んでみよう。

そして、分野が全く変わって、権丈善一『ちょっと気になる社会保障』。

ちょっと気になる社会保障

ちょっと気になる社会保障

他の権丈善一の著作もお薦めだが、とりあえずは本書を読むべし。

社会保障って、なんだか気になるんだよね。ちょっと知りたいと思うんだけど、なに読めばいいんだろ。政府の資料もいろいろとあるみたいだな。でも、なんか胡散臭いしなぁ。となれば、テレビで見たことのある人の本やよく売れてそうな本を読めばいいのかな。なるほど、これはおもしろいぞ、政府っていつも国民を騙そうとしているわけか。うんうん、そうかそうか……世の中はやっぱり陰謀で動いてたんだよなぁ。それを暴いてくれるこの本って、イケてない?えっ、なに、僕たち若者って、そんなにひどいめに遭ってるの?「若者は決してそれを許さないだろう」って、そんなこと知らなかったオレって何者?…だいたいもって、昔は高齢者を支える若者の数は御神輿型だったのがこれからは肩車型になるんだろう。そんなんで、あの、なんて言うんだ、僕たち若者が高齢者に貢いでいるって言うの、いや奪われているって言うのかな、あんな年金もつわけないし、やめてもらいたいよ。そんな制度になってしまったのは、政治家や官僚がえらいいい加減なことしたからなんだろぉ。(ⅰ-ⅱ)

いろいろと勉強している人でも「陰謀(論)」の罠に陥る人が結構いるし、単純な政治家・官僚批判に陥る人も多い。権丈氏の文章はクセがあるので、人によっては感情的に反発したくなるかもしれないが、まずは本書を冷静に読んでほしい。

ヘーゲルの「孔」について

ヘーゲル精神現象学』で「有孔態」という概念が出てきた(平凡社ライブラリー版165)。樫山欽四郎訳では、「素材のどれにもこれにも孔があって相互に浸透しうること。『論理学』の一の一二一」(同)という訳者による補足もある。この概念は、ヘーゲル独自の概念なのか、哲学の世界では一般的な概念なのか分からなかったので研究者の方に質問したけど、(ヘーゲルを専門としていない方にとっては)あまり馴染みのない概念のようである。そこで、『ヘーゲル事典』を取り出してみると、「多孔性Porosität」という用語で以下のような説明があった。

多孔性または有孔性とは、異種のガス体どうしが混同して相互拡散しつつも化学的に結合することなく、自立的に存在するという現象を説明するために、近代原子論の提唱者、ドルトン(John Dalton 1766-1844)が提起した仮説に由来するものである。この仮説は、それぞれの物質が自立的でありながら、それ自身のうちに無数の微小で空虚な間隙、すなわち孔(穴)をもち、この孔を出入りすることによって相互に循環・滲透しあうと考えるものである。ヘーゲルは、一方ではこの仮説が我々の知覚と経験によって立証しえない悟性の作りものであると考える。しかし、他方ではこの仮説が、ひとつの物質が同一の孔を通じて他の物質に滲透しながら同時に他の物質によって滲透されるという矛盾をはらんだ「純粋な多孔性」〔『精神現象学』3.110〕もしくは「絶対的多孔性」〔『大論理学』6.142〕として示されるがゆえに、多くの自立的物質を外面的に結合している物が自己を解消して現象に至らざるをえないという移行の必然性を実質的に実現するものとみなしている。(321) 

というわけで、いわゆる『大論理学』、『論理の学Ⅱ 本質論』(作品社)を取り出してみる。

この物の発生と消滅は…外面的結合の外面的な解体であるか、結合されたりされなかったりすることに無関心なものの結合である。諸々の素材はこの物から休むことなく出たり入ったりする循環を行っている。この物自身は固有の質量や形を持たない絶対的な多孔性である。(132)

すべての物質は多孔質であり、各々の物質の間隙には他のすべての物質がある。各々の物質が他の物質とともに各々の物質のこれらの孔の中にあるのと同様にである。従って、それらは互いに貫きあう多くのものであり、貫くものが他のものによって同じく貫かれ、よって各々がそれ自身貫かれていることを再び貫くということになっている。(135)

精神現象学』に出てきた「孔」という概念や、『ヘーゲル事典』及び『論理の学』の記述を読んで思い浮かべたのが、ドゥルーズである。いや、正確に言えば、千葉雅也氏を通じて知ったドゥルーズである。千葉雅也氏は『動きすぎてはいけない』の第6章で『意味の論理学』を取り上げており、「多孔性」という概念に注目している(269~)。『意味の論理学』では、上巻の159頁以降に「穴」の記述がある。また、たまたま手元に『フロイト著作集6』があったので、110頁以降を読んでみると、にきびや靴下の「穴」が出てくる。

ヘーゲルドゥルーズ、千葉雅也氏やフロイトの「孔」「多孔性」の記述を読む限りにおいて、これらの用語は哲学・思想上において重要な概念なのかなぁ、と。その意味を考えるため、彼等の著作をしっかりと読み直そう。

お買いもの『有限性の後で』外

前に買っておいた本をメモ。まずは、カンタン・メイヤスー『有限性の後で-偶然性の必然性についての試論』。

有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

TwitterのTL上では評判になっている一方、日々接する人たちは本書の存在を全く知らない。職業上、仕方がないことだけど、やはりさびしい。とりあえず、『現代思想』に収録されているメイヤスーの論文も読み直そう。

あと、日暮雅夫/尾場瀬一郎/市井吉興編『現代社会理論の変貌-せめぎ合う公共圏』。

現代社会理論の変貌: せめぎ合う公共圏 (立命館大学産業社会学部創設50周年記念学術叢書)

現代社会理論の変貌: せめぎ合う公共圏 (立命館大学産業社会学部創設50周年記念学術叢書)

先日お会いした、百木漠さんの論文が「「労働すること」と「仕事すること」」が収録されている楽しみな一冊。あと、昔よくフランクフルト学派の著作を読んでいたし、その流れで『討議と承認の社会理論-ハーバーマスとホネット』も読んだことがあるから、日暮雅夫氏の論文も楽しみ。そもそも、「公共圏」というテーマ自体に関心があるので、じっくりと読み進めていきたい。立命館大学社会学も哲学もなかなかアツい。

最後に、宮台真司監修/現代位相研究所編『悪という希望-「生そのもの」のための政治社会学』。

悪という希望――「生そのもの」のための政治社会学

悪という希望――「生そのもの」のための政治社会学

前作の『統治・自律・民主主義-パターナリズムの政治社会学』も大変興味深い内容であったので、本書も楽しみ。「公共圏」と「悪」というテーマは切り離せないものかもしれないので、『現代社会理論の変貌-せめぎ合う公共圏』とあわせて読み進めていこう。