三島由紀夫『文化防衛論』を読んだ。
- 作者: 三島由紀夫
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/11
- メディア: 文庫
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本書には、「果たし得ていない約束-私の中の二十五年」が収録されている。今、希望を語る人たちにこそ、読まれるべき論考である。
私の中の二十五年間を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。
二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルスである。…
この二十五年間、思想的節操を保ったという自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。思想的節操を保ったために投獄されたこともなければ大怪我をしたこともないからである。又、一面から見れば、思想的に変節しないということは、幾分鈍感な意固地の頭の証明にこそなれ、鋭敏、柔軟な感受性の証明にはならぬであろう。つきつめてみれば、「男の意地」ということを多く出ないのである。それはそれでいいと内心思っているけれども。
それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、ということである。否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与えて約束を果たすわけではないが、政治家の与えうるよりも、もっともっと大きな、もっともっと重要な約束を、私はまだ果たしていないという思いに日夜責められるものである。その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、という考えが時折頭をかすめる。これも「男の意地」であろうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間を、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来たということは、私の久しい心の傷になっている。…
二十五年間に希望を一つ一つ失って、もはや行き着く先が見えてしまったような今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であったかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使っていたら、もう少しどうにかなっていたのではないか。
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。(369-73)*1
福田和也が「解説 扇動者としての三島由紀夫」で「『ツァラトゥストラ』の末人の章のような形容詞のたたみかけ方」(390)と指摘しているが、たまたま僕も『ツァラトゥストラ』を読んでいたこともあってから、三島由紀夫とニーチェを重ねながら読んだ。
三島の否定・批判の徹底さが「決起」を導いたとしても、いや導いたからこそ、三島の否定・批判のエトスを学ぶべきだ。希望を語るために、「希望の空虚さ」や「希望をつなぐことができない」と説く、三島と向き合わなければいけない。
「否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ」と言いつつ、「私はまだ果たしていないという思いに日夜責められる」というのは、「来るべき○○」に対する責任だと思う。これに対して鈍感に生きていくことができるのか、ということだ。