yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

マルクス・ガブリエル「『なぜ世界は存在しないのか』入門」(『現代思想 2018.10月臨時増刊号』所収)

 「『なぜ世界は存在しないのか』の内容を踏まえ、ガブリエルに基本的かつ本質的な疑問を投げかけている」(19)インタビューとのことであるのでメモ。

○ガブリエルの哲学上の立場

ガブリエル:私はきわめて伝統に忠実な現代の哲学者です。…私はただ理性そのものの構造を徹底的に調べているだけなのです。…結果的に、私はある新しい形の実在論を宣言するグループに与することになりました。ここでの新実在論とは、実在するものがそれ自体においていかなるものかを、古きよき哲学的議論をもちいてじっさいに説明できるという思想です。…理性はきちんと仕事を果たすならば、事物がじっさいに存在しているあり方をじかに捉えることができるのだと考えています。(9)

 

○新実在論

ガブリエル:新しいところは、新実在論を二つの原理の組み合わせとして定義しているところです。ひとつは、私たちは事物をそれ自体において〔実在において〕把握できる、という原理です。…もうひとつの原理のほうは、革新的なものです。すなわち、事物それ自体は、「世界」というひとつの領域に属しているわけではない、という原理です。ですから、ここでの新実在論とは、世界なしの実在論です。(10)
この本では、存在という概念を分析することから始めています。つまり、「存在」とは何を意味するのか、から始めるのです。〔そしてその答えは以下の通りです。〕私たちがある事物に存在を帰するとき、それは、場所における一定の限定があることを意味しています。つまり、事物がどこかにあると通常考えます。…存在という観念は、位置の観念を伴うのです。(11-2)

 

○多元論

ガブリエル:私は多元論者です。それは、存在を実態から説明しようとしても、ありとあらゆる存在者を統合できないということを含意しています。ですから、存在そのものは、諸事物の統一的な特徴ではありません〔「ある」にはいろいろな意味があります〕。事物は果てしなく多くの領域にあるのです。…多元論者は、果てしなく多くの存在という領域にある存在者に、根本的に関与しているのです。(12-3)

 

○意味の場

ガブリエル:集合は存在論的な重要性をもっていません。〔通常〕「領域」について話すとき、それはきわめて曖昧です。まさにいかなる領域をも意味しています。…私はそれを、もっと明晰に定義された概念を置き換えます。つまり、その概念を「意味の場(field of sense)と呼ぶことにしているのです。意味の場とは、規則によって排他的にするという条件のもとで対象が現象する場です。…ある領域を他の領域から区別するものは規則であって、その規則は、正しい思考が、諸領域において諸対象を入手できるようにするのです。(13)

 

ヘーゲル主義

ガブリエル:私はヘーゲル主義的なことを論じているわけではないのです。ヘーゲル主義によれば、理性が事物に行き渡り、理性が把握する仕方にしたがって事物が神秘的に創り上げられる。したがって理性と事物が連鎖するのです。私はそうした描像を否定します。それは私にとっては過度に一般化しているように思われます。理性は、存在するものにとってそれほど中心的ではありません。ただし、たったひとつの形式の理性があるおかげで、理性はよりいっそう中心的であったり、なかったりするのです。(14)

 

○芸術作品

ガブリエル:芸術作品は私たちに、対象がいかなるものかを教えてくれるのです。ただし、芸術作品はつねに自分自身を超えていき、対象が本質的にいかなるものを語り掛けてくる。芸術作品は、私が展開しているような存在論に味方してくれるのであり、模範的に語るのです。そのとき、事実上、芸術作品は互いのうちで語り始めることができる-つまり〔例えば〕「いいや、これは対象の本質ではない」や「いいや、あれは対象の本質ではない」、と。まさにこうした事実、つまりは芸術作品のあいだの不一致は、私が擁護しようとする哲学的な描像とまさに両立するものなのです。(17)

 

○真理

ガブリエル:真理が意味しているのは、あることがあることにあてはまること、あることが事物の真のありかたという客観的な特徴を有することでしょう。
…少なくとも、それは、あるものがなんらかの性質をもつことを意味しています。しかし、〔そこには〕客観的な関係があると思います。ですから、多くのパースペクティヴの実在性-意味の場-は客観的な構造をもっていますし、その構造は、真なる言明をなすときに明らかになる構造ときわめて似ています。ですから、実在は、さまざまな論理形式をもっています。(18)

 

広瀬義徳+桜井啓太編『自立へ追い立てられる社会』

 次期首相候補の一人、菅官房長官が「自助・共助・公助」を唱える今、「公助が酷薄な現代世界を生きるには、何より未完のプロジェクトとしての「強い個人」の育成強化とその自助を前提とした共助しか残されていないとする立場とも異なる」(9)理念を持つ本書は、必読に値する一冊だ。では、本書の立場はどのようなものか。序文において次のように示されている。

わたしたちが求めるのは、この「自立支配」社会の舞台の上で自己を自律的な意志のあるパフォーマティブな主体として常に努力しつる活性化させる強迫的な日常からの自由である。(10)

この「自由」を探求するために、本書は教育・福祉・労働・メディアなどの様々な領域について、それらの歴史や現状、背景にある思想・理論を分析している。
 そして、この領域横断性において特に注目すべきなのが、第3章の桜井智恵子「反自立という相互依存プロジェクト」である。本論考は、「自立」の意義、市民社会の歴史、ポストモダン思想や承認論の問題、そして環境危機などに触れつつ、資本制社会に対して批判的まなざしを向ける。「自立」というテーマが、「私たちがみんなが居る場所にある」(66)ことを実感できる内容だ。
 かつて、介護保険を担当する部署で働いたことがあり、そのために福祉や保険を勉強してきた私にとって、第1章と第4章も大変興味深いものであった。

「ケア」の変革力とは…人が不可避的に負う他者依存性と応答可能性一般に由来し、家事や介護など特定の分野に限定されるものではない。すべての人が依存的であるのだから、誰を「依存した人々」とするか、誰が支援対象として重視されるべきかといった問題設定それ自体を超え出るものである。(28-9)

バッシングして福祉切り下げを支持する人びとと、バッシングせずに福祉受給(利用)者への自立支援を支持する人びと間には、共通の価値規範が隠れている。(71-2)

昨今の社会福祉の地域共生社会における「支え合い」という言葉は、全く不十分であり、むしろ危険である。「支え合い」は、ともすれば「支配し合い」に転化する。「誰もが支え手にまわれる」とか、「参加を通じて貢献できる」という、結局は人を有用性で評価している分断の言葉ではなく、人はすべてどうしようもなく依存しているという基本認識から始めなければならない。(80)

これらのことは、働きながら人びとと接するなかで私も感じてきたことであるが、それを言葉にすること自体リスクがあり、非常に根深いものだと思っていた。だから、これら重要な事実を明らかにしている点でも本書には価値がある。
 また、『高等学校学習指導要領解説 家庭編』を分析し、「社会的なこと」に言及している第8章も興味深い。

社会の影響を大きく受ける生活問題という認識を踏まえてもなお、その解決に家庭や地域の中で個人が主体的にあたることを要請している。社会の責任をあいまいにしてその解決コストを生活主体に負わせるのだ。社会的に解決する問題をより巧妙に自己責任の原則で覆い隠している。(138)

個人によるリスク管理のみを要請することは「社会的なことは個人的なこと」だとすることに他ならない。(139)

広い視野を持って生活を創造するなかには社会や国家の責任を問うことは含まれていない。不測の事態に柔軟に対応するには家庭や地域社会で止まっているのはふさわしくない。「社会的なことは社会的なこと」なのだ。(140)

介護保険法が導入されたのは「介護の社会化」を目指したものだったが、二〇年以上経った今でも家庭がまず第一に挙げられている。(144)

「社会的なこと」「社会的なもの」は引き続き重要なテーマであり、具体的な資料を用いてそれらを読み解く本章は、現代社会を批判的な視座から見るにあたっての格好のお手本になるだろう。
 自助・共助・公助という理念に対する批判的な意見を聞くが、その多くは国家批判である。しかし、問題は国家にだけあるのではない。第13章の結論で語られている次の言葉は、私たちに突き刺さる。

過ちを犯してきたのは国家だけではない。それは、教育効率を優先し、能力の高い者が優位に立つしくみに疑問を持たず、目の前の子どもたちが障害を理由に別の場に連れ出される不正義を糾弾してこなかった私たち自身の過ちなのである。(229)

国家だけではなく、私たち自身の問題としても受け止め、それぞれの日常における「自立支配」について考え、これからの「人間」そして「自由」を想像/創造すること、これが社会変革へとつながっていく。本書はその社会変革のための第一歩になるだろう。

 

 

千葉雅也×マルクス・ガブリエル「「新実在論」「思弁的実在論」の動向をめぐって」

 マルクス・ガブリエルの哲学に対して、その批判点を本人へ直接質問している大変面白く、勉強になる千葉雅也氏との対談「「新実在論」「思弁的実在論」の動向をめぐって」(『ニュクス 5号』所収)のメモ。

相対主義実在論

千葉:あなたの理論では、実在というのは「意味の場」ごとに実在があるということになっている。…あなたはこの理論によって、ポストモダン相対主義を批判しているわけです。しかし、このある種のパースペクティズムとも言える立場は、新たな相対主義であるようにも見えないでしょうか。つまり依然として、話の構造は、見方によって様々なものがあるということになっていて、ただしそれがパースペクティズムごとに単に理念的なものではなくて、それぞれが実在しているというわけです。これは、一言で要約するならば「相対主義実在論化」とまとめられるような立場ではないかと思うわけです。

ガブリエル:第一に「意味の場」はパースペクティブではないということです。
…真の意味でのパースペクティブというのは、とある立場から直接的に見ることのできるものです。…「意味の場」の例として私は、「文字通りのパースペクティブ」を挙げています。
…私は「存在(existence)」が「意味の場」に対して相対的であると主張しているのです。両者とも実在(reality)についての科学的な主張です。…つまり、実在というものが「意味の場」に対して相対的であると主張しているのです。
だから、私はこれがポストモダン的な相対主義実在論化ではまったくないと思っています。(305-7)

 

相対主義存在論

千葉:そうだとするならば、あなたの理論はある意味で「非常に洗練された」相対主義存在論であると呼ばれても、それは構わないということになりますか?

ガブリエル:そうです。ただしその意味で言うならば、物理学もそういった相対主義の洗練された理論の一つになります。(307)

 

○自然科学と人文学

千葉:あなたの理論ですと、文学的な「意味の場」の中で虚構的な何かが実在するということと、自然科学-これもまた一つの「意味の場」ですが-の中で何かが実在するということとは、どのような関係になっているのでしょうか。それは存在論的に言って対等だということですか。

ガブリエル:ええ、確かに、たとえば物理学もしくは生物学の対象(object)というのは虚構的な対象と異なる科学(science)、異なるレベルであるために、虚構的な対象と非常に異なったものであると言わなければなりません。私に言えるのは物理学の多くの対象はただ単に虚構的な存在者でないということであって、一方で全ての文芸批評や文化批評のオブジェクトは虚構的な対象であるということです。(307-8)

 

○存在の一義性

ガブリエル:それらは全て、存在と呼ばれる同じ存在論的なステータスを持っているのです。…動きの事実は現実に存在している枠組みに対して相対的なのであり、存在している事実もまた、現実に存在している「意味の場」に対して相対的なのです。…虚構的なオブジェクトもまた実在論的には物理学や生物学といった自然科学の研究の中でのオブジェクトと同じものであるということです。実在というステータスにおいては同じ意味を持っているのです。

千葉:なるほど。そうすると、ありとあらゆる意味の領域にわたって存在は一義的だということになるのでしょうか。

ガブリエル:そうです。一義性というのは正しいと思いますが、それはおそらくそれが理論の効果といいますか、…理論をもつときにはいつでも、クワインの言葉で言うと…存在論的なコミットメントと理論構造をもつことになります。
一義性(univocity)は理論の効果ですが、それはコミットメントではありません。しかし、それが実在していないということを意味しているわけでもありません。(308-9)

 

自然主義批判

ガブリエル:自然主義とはつまり自然科学の知識が唯一の知識であるか、もしくはもっともすぐれた種類の知識であるという見解のことです。私は様々な優秀な自然科学者の人と会話することがありますが、自然主義という世界観が自然科学から導き出されるものではないと私は思っています。
世界的にも行政権力の座につく人の中には自然主義者が多いのですが、これは純粋なイデオロギーです。そのための自然科学的なエビデンスはありません。…自然主義は気候変動と同じくらい危険です。(310-1)

 

ポストトゥルース

千葉:あなたの理論は今日「ポストトゥルース」と呼ばれている状況に関係するとおもうんですね。…一つの不可能なもののまわりに解釈が繁殖するという構造自体が終わったというのが、ポストトゥルースの状況だと思うんですね。そうすると今や、多数多様なものは解釈ではなく、ファクトが多数多様になっている。それがあなたの理論が言っている「実在の多様性」だと思うのですが、いかがでしょうか。

ガブリエル:存在(実存、existence)と真理が同じだとは言っていません。たとえ誰かが誤った信念(見解、belief)を持っていたとしても対象は存在していますね。だから私の信念は真実なのです。誤った信念が存在している、ということです。そして誤った信念は強力になりえます。なぜならその存在が認められるのですから。
…この誤った信念は実在的な対象(real object)です。新しい事実があるのです。すなわち、この人は誤った信念をもっているのだという事実です。
現代の情報化社会について私はこう思っています。これはポストトゥルース(more truth)です。残念ながら、モアトゥルースにおいて私たちが今持っているほとんどの事実は、人々が誤った信念を持っているということなのです。(311-2)

 

○信仰主義の問題

千葉:メイヤスー的に言えば、依然として信仰主義が問題ということになるわけですね。

ガブリエル:はい、まったくそうです。…彼(メイヤスー)が相関主義というものが-これは私の言葉ではポストモダニズムですが、それを何と呼ぼうとも-信仰主義、つまり何を信じてもよく、そして正当化といったものは存在しないといった考えを引き起こしている現象なのだと想定する点においてカンタンはまったく正しいのです。これに関しては、ヴィトゲンシュタインハイデガーが問題の原点だということも彼に同意します。(313)

 

オブジェクト指向存在論批判

千葉:オブジェクトという概念によってすべてのものの全体化をしている。それに反してあなたは「世界は存在しない」と言っているのですね。

ガブリエル:まさにそうです。それゆえオブジェクト指向存在論もまた間違っているのです。それは間違った理論であり、代わりになる(optional)ものでもありません。

千葉:理論自体がメタレベルですべてものものを全体化しているのだと。

ガブリエル:そしてそれゆえに還元主義者はすべてのものをオブジェクトに還元するのですが、それは間違っています。

千葉:だどすればあなたの立場は真の多元主義ですね。

ガブリエル:まさにそうです。真の多元主義です。すべてのものを視野におさめることのできる立場は存在しないし、そのような立場はありえません。(317)

 

多元主義と共存在

千葉:本当の多元的な状況において、共同体をつくる、ある種の合意形成をするにはどうしたらいいのでしょうか。根本的に別の存在があるとして、どのような共存在が可能なのでしょうか、もし世界が存在しないのならば。

ガブリエル:まさに全体性というものがないからこそ、重なり合いが可能になるのです。…すべての構造はローカルなものです。だから重なり合いが可能であり、そこの何の問題もありません。そのことで人々は私のやっていることが西田〔幾多郎〕と類似しているのだと考えているのでしょう。(317-8)

 

○偶然性

千葉:全体性がない、というのは、偶然性が作動しているということだろうと思いました。

ガブリエル:そうです。日本語でも出版される予定のFields of Senseという私の本のなかで私は述べているのですが、偶然性についての私の現在の見解はこうです。まずその答えはイエスです。これについての私の現在の見解は、必然性と偶然性は対象と、ある「意味の場」の間の関係であるというものです。…ほとんどの「意味の場」には偶然性があります。そして数学においても偶然性があるのです。(318-9)

 

宮﨑裕助+大河内泰樹+斎藤幸平「多元化する世界の狭間で-マルクス・ガブリエルの哲学を検証する」

 デリダ(宮﨑裕助)、ヘーゲル(大河内泰樹)、マルクス(斎藤幸平)の専門家が、マルクス・ガブリエルの哲学について議論した鼎談(『現代思想 2018.10月臨時増刊号』所収)。ガブリエルの著作を読むにあたっても参考になると思って再読したので、気になったところをメモ。

○デフレ化したヘーゲル

斎藤:(ガブリエルは)存在論なき、プラグマティズムヘーゲル解釈は、「デフレ化したヘーゲル」だという批判をしているわけです。
大河内:ガブリエルを読むと、ヘーゲルだけでなく、ドイツ観念論についての理解の深さが全然違います。ヘーゲルについての記述も…かなり精確だし、表面的ではないところできちんと捉えられている。(100)

 

○ガブリエルの哲学の語り方

宮﨑:ドイツ観念論を現代的な文脈に絡めつつ、いろいろな哲学的な動向や、ジジェクのように今世界的に起こっている政治的な動向や文化現象を絡めながら論じるというのは、非常に大変なことです。
大河内:私が面白いと思うのは、分析哲学やフランス現代思想など、こだわりなく哲学をフラットに語れるところです。…とにかく面白いと思うものを読んで、それを自分なりの料理の仕方をして論じている。(100-1)

 

○ガブリエルによる自然主義批判

大河内:自然主義といっても一つではないのですが、ガブリエルが批判するときには一般的に理解されている自然主義、つまり基本的に自然科学が実在について明らかにしているのだから、そこは哲学には手に負えず、自然科学に任せるしかない、基本的に自然科学がもたらした知識は正しいのだ、というスタンスとして理解されていますね。(102)

宮﨑:ガブリエルは-ここは重要だと思いますが-哲学の自然主義をはっきりと批判します。ガブリエルが突出しているのは、自然主義批判を一貫してやっている点だと思います。ガブリエルはむしろ、ヨーロッパ出自のポストモダンの哲学がゴチャゴチャした議論をやっている一方で、自然科学のイデオロギーと言うのでしょうか、テクノクラート化した学問がアメリカの巨大な資本に引っ張られてますます現代社会を座捲しているという状況のなかで、科学的世界認識を特権化する自然主義を批判しなければならないと主張するわけです。(106)

 

○ガブリエルによるポストモダン批判

宮﨑:ドゥルーズにせよフーコーにせよラカンにせよ、不可能なものに直面することで主体の主意主義的な解釈枠はその限界に突きあたるというところに、出来事の瞬間を位置づけ、主体をとりまく体制そのものの変革可能性を見込んできたはずなのです。
ガブリエルはポストモダン批判をしていますが、そういう意味では、ポストモダンと呼ばれてきた思想にはもともと実在論があったと私は思っています。(103)

宮﨑:とにかくはっきりさせておきたいのは、ガブリエルは藁人形のように敵をつくっているところがあり、本当はポストモダン批判になっていないということです。ガブリエルがポストモダンと読んでいるものの内実は、相当通俗化されたものでしかない。
大河内:いわゆるポストモダンも、構造的な外部が中心にあるのだというかたちで実在の話はしてきたと。
宮﨑:そういう契機はこれまでもいろいろなところに見出してきたのだから、そこをちゃんと評価して実在論を言わないと、本当に「新しい実在論」にはならないということです。(104)

斎藤:私は逆にポストモダン批判のところが面白いと思っています。とはいえ、どちらかというと民主主義や社会運動の観点からの関心です。
脱構築という手法自体が自己目的化していってしまっていて、結局何が示せるかよくわからなくなってしまった。そうした状況を一度リセットして、事実や普遍性に根づいた理論を再構築しようとする新実在論の試みは、排外主義的なポピュリズムが台頭するなかで有効な軸を打ち出せない左派にとっても、一考の価値があるのではないでしょうか。
開放的だったはずのポストモダンのプロジェクトが最終的に反動的なものになっていったわけです。なので、こういった状況を考えるなら、必ずしも藁人形であると私は思いません。
むしろ、もう一回実在論というかたちで事実の客観性を打ち立てようというモチーフは、アクチュアリティがあるなと思いました。(105)

 

相対主義について

斎藤:意味の場が無限に存在するという話は、あくまでも存在の無限性で、相対主義のように真理も無限にあるという話では決してないわけです。
宮﨑:実在論と言うのであれば、新しいそれであるにせよ何にせよ、相対主義ではなく、何らかの実在性に依拠するというか、それに即した議論が展開されなければならない。
まず相対主義ではないことは強調してよいと思うのですが、問題は次のレヴェルです。私はガブリエルの議論がそれでも相対主義のように感じるところがあります。…どういう「意味の場」同士の関係性があるのかがあまり問われず、いろいろなあり方に応じて複数の意味の場を想定し、いろいろなあり方に応じて複数の意味の場を想定し、それぞれの意味の場に対応する実在の各々がみな並立しうる、というのはやはり相対主義的に聞こえます。
斎藤:ガブリエルは普遍性とか学問の客観性をものすごく重視するわけです。学問的に裏づけられたものは客観的な事実として妥当しているのだから、尊重しなければいけないのだということは、すごくシンプルに言います。
そういう意味で、相対主義が真理の領域において妥当するなんて、本人はさらさら思っていないわけです。(108)

大河内:先ほど宮﨑さんは「意味の場に対応する実在がある」という言い方をされていましたが、たぶんそうではなくて、彼の言っているのは意味が実在だということだと思います。
意味が実在するとして、しかし意味と言う限り、「われわれ」にとっての意味であって、そういうかたちで意味の場がある意味の場に包摂されることも起こりうるというのはわかるのですが、そのときの「われわれ」とは何なのかという問題が残ります。私の立場から言えば、そのときには社会を想定しないといけないと思うのです。でもガブリエルはそこも曖昧だと思います。
宮﨑:意味の場はいろいろ成立するのだけれど、その意味の場を引き受けるのか、ある意味の場が支配的な社会とそうでない社会がある。あるいは意味の場に応じて共同体が分かれてします。すると、やっぱり最初の構図に戻ってしまう。人間とは関係なく実在しているところで意味の場を考えるという、実在論の最も肝心なところを裏切ってしまうことになる。ここは結構深刻な問題だと思います。(109)

 

○ガブリエルの楽観主義

斎藤:実在するのが無限にある、意味の場が無限に開かれてあって、その無限の意味のなかで思考していくことこそが人間の人間らしさであって、これこそが「精神」の営みなのだ、と。「絶望的な笑い」ではなく、そのような無限性を受け入れる「解放的な笑い」に到達しようという話ですね。(112)
今の民主主義社会では、インターネットなどによって情報が爆発的に増大しています。だけれど、そうやって情報が増えたからといって、みんなそこからいろいろ考えたりするかというと、そんなことはない。どちらかといえば圧倒的な情報を前にインプットをシャットダウンしてしまって特定の意味の場に閉じこもりがちです。その結果として人々が分断され、さらにはこうした情報量を減らしてしまいたいという欲求があるなかで、ガブリエルが言うような解放的に笑える主体、無数の意味の場という負荷に耐えられる主体は本当に可能なのかどうか。来日時には、教育によってできるようになるのだという話をしていましたが。
宮﨑:存在論の多元化を進めると、実際にはタコツボ化・島宇宙化してしまう問題のほうが今は大きくないでしょうか。それでディスコミュニケーションになってしまって、一方で自然主義イデオロギー的な世界観が資本の力によってどんどん拡大していく。そこで主体を強くしましょう、教育で多元的な世界にもっと目をひらいて豊かに生きましょうというメッセージはかなり弱いと思います。正しいのですけれど。(113)

 

○ラディカル・デモクラシー

斎藤:ラディカル・デモクラシーとは、民主主義は民主主義に反対することができないという意味だというのです。
宮﨑:それは普通は逆で、留保つきのデモクラシーですよね。民主的決定に制限をかけようという話なのですから。
斎藤:そうなんです。制限という意味では立憲主義的な話に親和的なので、対談でも國分さんと盛り上がっていましたね。つまり、民主主義だとこういう問題しか扱えないという枠がまずあって、そこに入らない意味の場は最初から排除されているわけです。
宮﨑:よくある批判は、そういう制限された民主主義の場に上がってこられない人たちがいるのをどうするのかというものです。それを設定した段階で排除と包摂が起きていて、まさに民主主義が問われなければならないはずの、そういう留保つきの民主主義の場に上がってこられない人民の問題をむしろ抑圧してしまう、と。
そういう意味では、私はガブリエルの言動はちょっとテクノクラートっぽいなと思ったのです。本当に良識的なドイツの知識人というか。(114)

 

橋爪大三郎『パワースピーチ入門』

 仕事においてスピーチをすることが多くなると思っていたところ、愛読してきた橋爪大三郎氏の新著『パワースピーチ入門』を本屋でたまたま発見。最近は橋爪氏の著作から遠ざかっていたが、本書は橋爪社会(科)学の実践書とも言えるような内容であり、大変興味深かった。
 橋爪氏は「大事なこと」として、①パワースピーチというものがあることを知っていること、②パワースピーチの実際に触れること、③パワースピーチは人間の問題だと気づくこと、という3点を挙げている(6-7)。特に③について、「パワースピーチは、テクニックを超えたもの」として、「人間としての存在をかけ、人間を磨かなければ、パワースピーチはできない」(7)と指摘している。そして、本書は具体的なパワースピーチやその実践者たちを紹介することで、これらの「大事なこと」を学べるような構成になっている。
 本書で興味深いところは、橋爪氏が「枝葉の議論なのであと回し」(21)にしてかまわないとされている第Ⅰ部だ。第Ⅰ部では「臣民」「市民」「人民」「国民」「国家」「憲法制定権力」「天皇」「自然権」等々の「言葉」を扱い、その意味や論理を説明し、「言葉という武器」(34)の重要性を読者に提示している。そして、「日本語を研ぎ澄まして、同時代を突き抜ける武器とする」ために、「重要な言葉が用いられた西欧語の原典にさかのぼり、その用法を確かめること」と「それらの言葉(だけ)を用いて、戦後日本の現実をまるごと考えてみること」(34-5)を推奨している。これはまさに、言語を重んじ、領域横断的な性質を持つ橋爪社会(科)学の実践と言え、その延長上にパワースピーチがあるということだ。
 そして、スピーチで明らかになることを橋爪氏は次のように列挙している。

・語りかける私は誰か
・語りかけられるあなたがたは誰か
・語りかける私と、語りかけられるあなたがたは、どのような関係にあるのか
・いま直面している課題は何か
・何を目標にし、何を実現したいのか
・そのために、どういう戦略をとるか
・そのためにどういう手段をとるか
・そのために、誰がどのように行動するか
・そのために、どういう困難やコストや被害が生じるか
・いつ目標は実現し、課題は解決するのか
こうしたことを、だらだら説明するのではない。言葉を選んで率直にスピーチすると、これらのことがおのずから明らかになるのだ。(53)

これらが明らかになることで、人びとに対して今考えるべきこと、行動すべきことの「気づき」を与えることができ、それゆえスピーチは「言葉を用いて行う行動」(53)なのだ。
 具体的に言葉の使い方の問題を指摘している箇所も面白い。例えば、僕も仕事の文書ではよく使用する「ただし書き」については、スピーチでは不要なものとして批判している。

「ただし書き」は、言い訳である。役人が責任を取りたくないときに、つけ加える。いや、もうこれは役所の週刊で、それ以外の文章の書き方がない。本人は、責任を取りたくないので「言い訳」をしているという意識すらないのかもしれない。なお恐ろしい。(184)

また、「させていただきます」も同様に責任回避の言い回しであり、その例として「始めさせていただきます」について説明している。

「始める」+「させる」は、自分の行為の源泉が、相手になることを示す。相手が意思し、指示するから、自分が行為する。相手には、そのように指示する力がある。そのように相手を持ち上げつつ、相手に行為の責任を押しつける。…
なぜ「始める」ではなくて、「始めさせていただく」なのか。
結論として言うなら、自己防衛のためである。(249)

 橋爪氏は従来から政治家に対して強い責任を求めているが、それは本書でも同様である。

政治的リーダーは、その社会のすべての人びとと、この重い任務を通じて結びついている。よって言葉で、その任務に応える意思があること、能力があること、方法があることを伝えなければならない。これが、政治的なスピーチの本質である。(269)

重い任務に耐えられないこと、任務に応える意思と能力を持てる状況ではないこと、これらを自身の言葉で伝えたとしても、それはスピーチではないだろう。
 「誰もがスピーチのわざを身につければ、ひとりでも多くの人びとが身につければ、そのなかからきっとすばらしいリーダーが現れる」(270)。そう、受身でリーダーの出現を待ち、お任せするのではなく、まずは私たちから行動を始めなくてはいけない。

パワースピーチ入門 (角川新書)

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