ハイデガーは、1949年ブレーメン連続講演「有るといえるものへの観入」でも、ヘルダーリンの「パトモス」を取り上げている。
- 作者: ハイデッガー,Martin Heidegger,Hartmut Buchner,ハルトムートブフナー,森一郎
- 出版社/メーカー: 創文社
- 発売日: 2003/03
- メディア: 単行本
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本講演では、次のように語っている。
「だが、危機のあるところ、救いとなるものもまた育つ。」
われわれがいまこの言葉を詩人が詩作したよりもなおいっそう本質的に思索し、この言葉を極限ぎりぎりまで思索し抜くとき、この言葉は次のように語る-
危機が危機としてあるところには、救いとなるものはすでにある。救いとなるものは、とってつけたように据えられるのではない。救いとなるものは、危機の横に並んで立っているのではない。危機それ自身が、危機としてあるとき、そのまま救いとなるのである。危機が救いとなるのは、危機がその本質からして救いをもたらすかぎりにおいてである。…
では、危機はどこにあるのだろうか。危機のための場所はどのようなものなのか。危機が元有それ自身であるかぎにおいて、危機はどこにもなく、かつどこにでもある。危機はいかなる場所ももたない。危機はそれ自身、およそ現前してあり続けるはたらきすべての、場所なき所在なのである。危機とは、総かり立て体制として本質的にあり続ける、元有の転換期そのものである。(91)
本講演を読むと、平凡社ライブラリー版の『技術への問い』の帯に寄せている國分功一郎氏の次の言葉は、本当にその通りだと思う。
本書から見えてくるのは、我々がいま直面している危機に他ならない。ハイデッガーを読むとは、すなわち、危機について思考することである。
そして、ハイデガーはブレーメン講演の「まえおき」で次のように語っている。
原子爆弾の爆発とともにこれからやって来そうなことに、人間は見とれている。だが、もうずっと前から現に到来してしまっており、しかも現に生起してしまっている当のものを、見ようとはしない。原子爆弾とその爆発といえど、せいぜい、この本体から吐き出された最後の噴出でしかないというのに、である。水素爆弾については言うまでもない。それにしても、水素爆弾を一つでも起爆させれば、最悪の可能性を考えると、地球上のあらゆる生命を絶滅させるにおそらく十分なのである。そんな途方にくれるしかない不安に襲われていながら、何を呑気に待ちかまえようというのか。戦慄すべきものが、もう現に生起してしまっているのだとすれば。(『ハイデッガー全集 第79巻』6)
そう、ハイデガー読むとは、現に生起している・現前してあり続ける危機のもとで、危機について思考することなのである。