yamachanのメモ

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脱構築と政治的実践、そして否定神学的共同体

東浩紀存在論的、郵便的』を再読したところ、今の自分にとって大変興味深い箇所があったのでメモ。

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

 

 具体的には、第二章の「(1)バーバラ・ジョンソン「参照の枠組み」について」と「(2)外傷traumatismeとユダヤ性」(102-110)。以下、その中でも特に興味深った箇所を引用。

ゲーデル脱構築は完全に形式的である。したがってそれは具体的応用に際しては必ず、ある飛躍、九〇年代のデリダによる神秘化された表現を借りれば、「不可能なものへの無限の責任」を要求する。しかしここで警戒すべきは、理論的に支えられないその飛躍の「穴」を埋めるためにこそ、素朴なイデオロギー、主体や共同体の経験主義的な肯定が再来しうることである。したがってジョンソンの問題は、脱構築と政治的実践の接合が陥りがちな陥穽を範例的に示している。脱構築アイデンティティ・ポリテックス、否定神学と経験論はくるりと反転して融合するのだ。実際にいまの日本でも、ドゥルーズデリダなどの超越論的思考に深い影響をうけたはずの論者たちが、しばしば政治的・社会的批判の文脈で単純な経験論に回帰している。(104) 

 

いかなる同一性ももたず、つねに他者に開かれていること。しかしそれは言われるほど単純な話ではない。現実には、同一性の欠如がむしろ同一性を強化することがあるからだ。(108) 

 

そもそも「メシア的なもの」とはデリダにとって、「来るべき民主主義」のラディカルな異種混合性…を表す重要な隠喩=概念だった。しかし他者へのその開放性が、実はある外傷、実証的には語れない否定的経験によってのみ支えられるものだとしたら?そのとき「メシア的なもの」の効果は突如反転し、きわめて強力な否定的同一性の論理となって共同体を再組織化することになるだろう。つまり共同体が異種混合的であること、その成員に何も実体的な共同性がないことが、逆に人々を排他的に結びつけることがありうるのだ。私たちはそれを「否定神学的共同体」とでも呼ぶことができる。(109) 

東浩紀氏が指摘したこれらの問題点が、理論的にも実践的にも表出したのがここ数年の動きだと思う。「単純な経験路への回帰」、「同一性の欠如による同一性の強化」、「共同性がないことによる排他的結合」 、我々はこれらの問題に対して敏感になる必要がある。今はあまりにも素朴なんだと思う。「素朴であることがよいことだ」という考えもあるのかもしれないけど…。