日本を代表する思想家の一人、東浩紀氏が書いた「批評の本でも哲学の本でもない」、「私小説あるいは自伝」(266)のような一冊だ。具体的には、2010年に創業されたゲンロンとともに歩んだ10年の軌跡を振り返ったもの。しかし、「哲学はあらゆる場所に宿ります」と東氏が言うように、本書はゲンロンという「場」に宿った哲学を描いた哲学の書でもある。また、東氏がゲンロンの経営を通じて「転んでいる」*1姿、つまりは「誤配」を描いた「啓蒙」(259)の書でもある。東氏は次のように語る。
ひとは40歳を過ぎても、なおかくも愚かで、まちがい続ける。その事実が、もしかりに少なからぬひとに希望を与えるのだとすれば、ぼくが恥を晒したことにも多少の意味があるだろう。(5)
そう、本書は「希望」の書である。「会社の本体はむしろ事務にあります」(32)、「人間はやはり地道に生きねばならん」(80)といった「凡庸さ」(4)、「自信の欠如や現実逃避」(220)、「「ぼくみたいなやつ」ばかりを探そうとする欲望」(225)といった告白、これらが哲学の実践を通じて描かれており、ここに本書の魅力がある。そして、その魅力が人々に希望を与えもする。自分の人生の中にも哲学は宿っている、と。
また、本書は「思考」を促す一冊でもある。「思考は誤配=雑談から生まれます」(113)として、東氏は「考える」という行為の重要性を語っている。
ぼくは「知る」と「わかる」と「動かす」だけではダメだと考えるようになりました。現実には世の中の問題は複雑で、長い歴史があったり利害関係が込み入ったりして、「知れば知るほどわからなくなる」ことや「わかればわかるほど動けなくなる」ことが多い。その状況で問題を単純化して強引に社会を動かそうとすれば、かえって状況が悪くなることもある。ほんとうは、「知る」と「わかる」のあいだに、そして「わかる」と「動かす」のあいだに、「考える」というクッションが必要なのです。(113)
誤配を描いた本書もまた「考える」きっかけを与えてくれるのだ。
第6章では、私たちも直面している「コロナ・イデオロギー」との戦いを描く。それは「ゲンロンのアイデンティティを揺るがすもの」(231)であり、つまりは「誤配」という価値を揺るがすものだ。東氏は「その新しい状況にどう対応すればよいかはまだ定まっていません」(236)と語る。私たちもそうだ。しかし、「誤配」という哲学の実践であるゲンロンの活動を描いた本書を読むことで、私たちは「考える」ということからスタートできる。そして、この「考える」という行為には価値があって希望がある、そのように実感できる読書体験であった。