yamachanのメモ

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マルクス・ガブリエル×中島隆博『全体主義の克服』

 「新実在論」「新実存主義」を掲げるマルクス・ガブリエルと中国哲学を専門とする中島隆博。どのように対話が成立するのかと思っていたが、対話は共鳴しあい、読者を惹き付ける。中島氏がガブリエルに対して、そして哲学に対して誠実に向き合っているためでもある。しかし、何より二人には中国哲学への関心、そして「アクチュアルな問題に迫ろうという哲学的なパッション」(17)という共通項があり、それらが本書を盛り上げる。後者について、中島氏は「おわりに」でこのように述べる。

ガブリエルさんとわたしが、どのように全体主義を哲学的に問題化しているのかは本文を読んでいただければ詳細はわかると思うが、簡潔にポイントを述べておくと、一なる全体にすべてを包含しようとする諸概念(世界、存在、科学主義、資本主義等々)を批判し、より偶然や他者に開かれた地平を示そうというものである。これは現実を構成している諸力がなんであるかを解きほぐすことによって、新しい普遍的な倫理を構想することに向かおうということでもある。(248)

中島氏は、ガブリエルの「哲学的なパッションの核心にあるのは、全体主義への批判である」(18)と指摘しており、それは中島氏が批判する「全体主義的な「一」」(111)とも関連する。
 そして、もう一つ背景が中国哲学という共通項だ。ガブリエルは中国哲学の研究もしており、三世紀の魏の学者である王弼に関心を持っていたという話から、第五章の対話は始まる。そこから、王弼とシェリング否定神学との関係、自由意志の問題、普遍の問題といったことへと対話は進んでいく。普遍の問題に対しては、中島氏は次のように語っている。

もうひとつ、ガブリエルさんと盛り上がったのは、「普遍」に対する態度であった。過度な相対主義が普遍を退けることによって、かえって特殊でしかない現状を肯定するというパラドックスを前にして、もう一度いかにして「普遍」への問い方を可能にしていくのか。この問題をずっと議論していたのである。(246)

この普遍の問題は全体主義の問題へと通じ、「全体主義が想定した普遍は決して普遍的なものではなく、ある種の悪しき相対主義を許すことで、きわめて暴力的なものになりました。わたしたちは新しい普遍の概念に向かう必要があるのだと思います」(208)と中島氏は指摘する。そして、次のような議論が展開される。

中島:哲学は中立であるべきだというあなた(=ガブリエル)の考えは、複合としての世界哲学という概念に照らしても実に示唆的です。そして、わたしは、世界哲学を考える際に、「普遍」ではなく「普遍化する」というプロセスに注目しています。
ガブリエル:ええ、普遍性というものがあるとすれば、普遍化するさまざまな方法がなければいけません。普遍化することを複数化できるかもしれませんね。つまり、普遍化することは、複数のなかにありうる。それぞれみな出発点が異なり、異なる「動き」があるからです。(214)

 対話ゆえに議論は多岐にわたり、ガブリエルの放談も交えるため、焦点が定まりづらいところもあるが、「普遍」と「全体主義」という視点から読み解くことで、本書の内容を整理していくこともできるであろう。二人の「哲学的なパッション」に触発される、価値ある一冊だ。

全体主義の克服 (集英社新書)